2006年7月 2日 (日)

老鼠愛大米NO.59

運動場の真ん中で2組の学生が直美を待っていた。輪の中から高輝が現れた。な、なんと坊主になっている。  「どうしたの?高さん!」直美は驚いて無意識に口に手を当てた。    「坂本先生、すみません。僕たち、劉と先生のために絶対   勝つと誓ったのに、負けたんです。すみません、すみません。」高輝はそう言いながらおいおい泣き出した。  「ありがとう、高さん。劉君にもあなたたちの気持ちが届いたと   思うの。ほんとに今日はありがとう。」直美の周りに2組のみんなが集まった。  「アッ!」直美の体が、スーッと軽くなったかと思うと次の瞬間、空に浮き上がった。みんなの手が、直美を何度も、何度も空へ投げ上げる。 最後に直美の体を趙が受け止めた。直美の周りにまたみんなの顔が重なって囲む。  「先生、先生の学生は劉だけですか?」趙は笑いながら目はまっすぐに直美を見て言った。   「先生、僕たち待ってますから…。」  「先生の声、教室で聞きたい!」 直美は皆の腕に抱かれながら思う。  …そうだった。わたしは 日本語の教師だった。

読者の皆様へ

「老鼠愛大米」、ここまで読んでくださって、ありがとうございます。一応ここでお休みにします。また、いつか書きたいと思います。では、その日まで。             Kittty

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2006年6月23日 (金)

老鼠愛大米NO58

「あら、王華さん、久しぶりね。元気?」

  「元気?うーん、まぁまぁですねぇ。先生は?」

  「元気よ。」

直美が少しうつむき加減に応える。なんだか今までのさわやかな気分がいっぺんにかき消されたような、憂鬱な気分になった。

  

「先生、李麗麗が強制送還されたの、知ってますか?」

「えっ!李さんが!そんなぁ、知らなかったけど。」

「それに、麗麗は妊娠してたんですよぉ。」

まるで、人の不幸を楽しんででもいるかのように、王華が目を細める。

  「妊娠?だ、だれの子?」

  「さぁ、わからないんですよねぇ、これが。たぶん事務の田隈

   さんの子じゃないのかなぁってみんなが…。」

  「そう…。」

  …田隈さんの子…。

また、息が詰まりそうな感覚に襲われて、直美は少しよろけた。

  …もう、いいよね、劉君。わたし、疲れた。こんなことから開放

されたい。

直美はバックの中に手を突っ込んで、劉の土鈴をそっとさわった。

  「先生、劉が死んでからずーっと学校休んでましたね。先生と劉

って何か関係があったんですか?」

王華がねとっとした声で訊いた。長く伸ばした髪の毛を手でいじっている。

  「関係って?」

  「だから、劉と先生って体の関係とかあったのかなーって。

みんな噂してるから…。」

直美はそのまま地面に倒れそうになるのを、テントの柱に手をまわしてようやくこらえた。

  「やめろ!」

いつの間にか趙が後ろに立っていた。その横にさっきの白組のアンカーもいる。スラっとした体型は劉とよく似ていたが、顔立ちは少し影を帯びたような劉とは反対に、今日の青空に溶け込むようなスカッとしたすがすがしさがあった。

  「先生、みんな待ってます。行きましょう。」

趙が直美を促す。直美はそれを手で制して、王華の目をまっすぐに見た。

  「王さん、わたしね、この頃思うのよ。人は三つのタイプにわか

れるんじゃないのかなぁ。人を愛する人、人に愛される人、そ

してそのどちらもできない人。人を愛すことも愛されることも

ない。そんな人さびしいと思わない?あなたがその三番目のタ

イプじゃないといいけど…。」

  「じゃぁ、先生は何番目の人なんですか?」

王華がくいさがる。

  「さぁ、何番目なのかしら?わからないの。でも一つ選びなさい

って言われたら1番目を選ぶわ。人を愛する人になりたい。

たとえわたしがその人に愛されなくてもね。」

直美は心の中でもう一度つぶやく。

  …わたしは人を愛する人になりたい。

  「行きましょうか。」

直美はくるりと後ろをむいて、趙の背中に手を回した。趙は直美の肩を抱く。まるで直美を守る兵士のようだ。

  「あれーっ。趙さん、何やってるんですかぁー。坂本先生を一人

占めはだめですよぉー。」

 佐伯のはじけるような笑い声が聞こえる。

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2006年6月15日 (木)

老鼠愛大米NO.56

           スポーツ大会

 “パンパーン…”

空砲が聞こえる。九州日本語学院のスポーツ大会開始の合図だ。直美はようやく退院し、「是非見に来てください」という趙の誘いを断りきれずに、会場の入り口までやってきた。

 朝から何度も入り口の方を気にしていた趙が目敏く直美をみつけて

「坂本先生-っ!」と手招きする。周りにいた2組の学生たちがはじかれたように立ち上がって、バラバラと直美の方に駆けてきた。

 久しぶりの顔。どの顔も懐かしい。

  スポーツ大会は白組、赤組、青組、緑組、黄組の5つのグループに分かれて争われる。10月からこの学校に入学した新入生も加わっていて、直美の知らない顔がずいぶん増えている。

出し物は例年と同じような種目で、百足競争、綱引き、玉入れ、借り物競争、二人三脚。

 二人三脚は事務長の八田と、斉藤主任がペアになった。ところが二人の気が合わずに何度も転び、最後は結んだ紐がほどけてしまった。しかたなく、八田が斉藤を抱き上げて必死でゴールに駆け込んだ。

二人の様子に、学生たちは涙が出るほど笑い転げる。

斉藤は八田に抱き上げられたことに腹を立て、ゴールしたとたん、本気で八田のほっぺたを「バシーン」っと平手打ちした。

それを見てまた会場全体がドッと笑いの渦に包まれた。

スポーツ大会は楽しい。こんなに笑ったのは久しぶりだ。どの顔もうれしさに輝いて見える。

 時間はアッと言う間に過ぎて、最後の種目、各組対抗のリレーが始まった。

 男女6人が組になって走る。女子が二人で、半周ずつ、残りの男子4人がそれぞれ1周ずつ走って1位を争う。

 皆と久しぶりに競技を楽しんでいた直美もリレーとなるとさすがに胸が痛んだ。去年の劉を思い出す。劉は走るのがずば抜けて速かった。細く長い足が鋼のような強さで地面を蹴って走る。劉が走り始めるとレースよりも、劉の走りそのものに観衆は目を奪われたものだ。

  …もう、帰ろうか…。

 直美はトイレに行くふりをして、そっと席を立った。皆の輪から離れて数歩、歩いたところで

「ウォーッ!」という歓声が背中で聞こえた。後ろを振り返ると、リレーの選手団が入場してくるところだった。

「アッ。」

直美にもみんなの歓声の意味が分かった。趙たち白組の選手はみんな

頭に墨で「劉」と書かれた白い鉢巻をしていた。

  走る、走る、走る…。

 選手たちは選ばれただけあって、どの人も早い。白組は女子二人が走ったところで5組中、第3位につけた。3番目の男子は何とか3位をキープしたものの、2位との差は縮まらず、むしろ4位の緑組に追い上げられそうな勢いだ。ところが4番手に走った高輝ががんばった。

阿蘇の草千里で馬に乗ったときのように、

  「負けるかーっ、負けるかーっ!」

と大声で叫びながら二位に迫る。二位の赤組の選手は高輝の大声に気おされたのか何度も振り返って、しまいには次の選手にバトンを渡すときに落としてしまった。あわてて拾っている間に、高輝が趙にバトンを渡し、赤組を抜き去った。

 趙も早い。またもや「負けるかーっ。」と叫びながら、暴れ馬のような格好で1位の青組みを追いかける。しかし青組の鄭はもっと早い。差が縮まるどころか、ヂリヂリと開いていく。

 鄭が最後のコーナーを回ったとき、それぞれの組のアンカーが一列に並んだ。

 立ち止まって見ていた直美はアッと息を呑んだ。

白組のアンカーはまるで劉そのものではないか。スラッとした長身の体躯だけではなく、遠くからみると顔まで似ている。

青組のアンカーにバトンが渡ると、数メートル遅れて趙が白組のアンカーにバトンを渡した。アンカーは長い足を更に長く伸ばして、青組を追いかける。

 

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2006年6月10日 (土)

老鼠愛大米NO.53

いつの間にか職員室がざわついてきた。職員が次々と出勤してきたのだ。「もう、その話はまた後で」と斉藤は佐伯を席の方へ促した。

その時だった。ドアのところに趙が現れた。

  「先生、交通事故です。」

趙がなぜかいつもに増してモタモタと話す。佐伯が先ほどのことをひきずっているのか、イライラした声で叫ぶ。

  「またですかぁ。もう、学期が始まったらとたんに、こうなんだ

から。いい加減にしてほしいわよ。今度はだれ!」

バーン!と机をたたいて立ち上がった。

  「2組の劉です。」

  「えっ!劉君。劉翔さんが事故にあったんですか?」

日本語学校では「学生が交通事故にあった」というニュースが少なくとも1ヶ月に1回か2回入ってくる。信号を確認しないせいか、あるいは信号を無視しても大丈夫、相手が止まってくれるから…、という根拠のない思い込みを捨てきれないのか、学生たちはいとも簡単に事故にあう。

 ただ、「劉翔」とは意外だ。あの学生がそんな無茶な横断をしたりしないはずだ、と誰もが思う。

  「で、劉さんは今どうなっているんですか?」

佐伯はさっきとはうって変わった調子で聞き返した。

  「今、病院です。病院で…。」

  「どこの病院?!」

後ろで直美の声がした。

  「趙さん、劉さんはどこにいるんですか。」

趙が振り返ると、直美が透けるような青白い顔になって尋ねた。

  「先生、病院にいます。」

  「だから、病院ってどこなんですかぁ!」

佐伯が前より大きな声を出す。趙は焦点の定まらない目で

  「あの、あのわかりません。名前、わかりません。」

  「趙さん、で、劉さん、どんな様子?」

斉藤がいつもよりもっと落ち着いた声で、趙の肩に手をかけて訊く。

  「先生、もうだめです。」

  「うん?、もうだめって?」

  「何?趙さん、だめって何が?」

直美はゆっくりと、趙に近づいた。

  「だめって何が?まだ間に合うの?間に合うならわたし、劉君に

   言いたいことがあるのよ。」

消え入るような声で直美が言う。

趙は直美の腕をつかんだ。そうでもしないと直美は今にも倒れそうだった。

  「先生、もう間に合いません。 劉翔、死了。(死にました)。」

眼の前が真っ暗になる。劉の手を思った。細く長い手、力強く直美を引く手。そしてその時、劉が直美の手をパッと離した。

  …劉君…。直美は落ちていく。暗い、暗い闇の中に。まだ言うことがあったのに、「あなたが好きだ」って、言わなくっちゃならないのに。声が出ない。深い暗い闇の中に直美は音もなく吸い込まれていった。  

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2006年6月 4日 (日)

老鼠愛大米NO.52

● 絶望

月曜日。新しいことが始まるといつも緊張する斉藤はこういう

とき、特に早く出勤することにしている。今日も相当早い時間に学校に着いた。久しぶりの緊張感にちょっといい気分になって、颯爽と職員室に入って行った。

  「主任!」

佐伯が珍しく一番に学校に来ている。斉藤を見ると、待ちかねたように椅子から立ち上がった。

  「あら、佐伯さん、どうしたの。珍しいわねぇ。こんなに朝早く。」

  「あの、主任、相談があります。李麗麗さんが強制送還されたの

をご存知ですか。」

佐伯は妙に落ち着きがない。

  「知ってるけど、それが?」

  「あの、金曜日に5組の王華さんから電話で、『李さんが強制送還になって、アルバイト先のお金ももらってないし、困っているから助けてやってほしい』って頼まれて、わたし、お金を貸したんです。」

  「えっ、あなた。」

「あなた」とつい言ってしまって、斉藤は「しまった」っと思った。しかし佐伯は自分の話に夢中で、そんなことに気がつきもしないよう

だった。

  「で、いくら貸したの?」

  「20万円です。」

  「えーっ、20万円!」

  「ええ、ボーナスを貯金していたし、王華さんのおばさんから

   返してもらうからって言うもんで。」

  「じゃぁ、良かったじゃない。それなら。」

斉藤はもうそのことに触れたくなかった。早いとこその場を退散したい気分になっていた。

  「それが、そうもいかないんです。実はわたし、お金を王華さん

に預けた後、心配になって王華さんのおばさんの店に電話をか

けたんです。」

日曜日なので店にはだれもいないかもしれない、と思いながら佐伯は調べておいた電話番号を押してみた。すると意外にも王華のおばさんが電話口に出た。えらく眠そうな声だった。おそらく前の晩からその店に泊まっていたのだろう。事情を話すとおばさんは不機嫌そうな声で、

「あのー、王華は私の姪っ子ではありません。」

と言う。

  「ええっ。だって王華さんがおばさん、おばさんって言う

ものだから。」

佐伯は自分が貸した20万円のことを思って、大いに不安にたってきた。

  「第一わたしは中国人じゃありません。親戚が中国人と国際結婚

でもしてるならそうかもしれないけど。今んところ、そんな人

はいないし…。」

  「なら、李麗麗さんがお宅で働いていたっということじゃないん

ですね。」

  「それは働いていてましたよ。だから強制送還されたんじゃない

の。うちだって被害者なのよ。それなのに王華が来て、李さん

の給料をすぐに払ってほしい、李さんの帰国に間に合わない、

というから、給料日前なのにあわてて李さんの分だけ支払った

んだから。」

  「えーっ、もう給料支払ったんですかーぁ!」

佐伯は仰天した。

  …だったらわたしの20万円、だれが返してくれるの?

  「もしもし…。」

今度は向こうから話しかけてくる。

  「あなた、もしかして王華にお金貸したんじゃないでしょうねぇ。」

  「えっ?そんなこと…。」

佐伯はつい否定してしまった。王華にだまされたことを見ず知らずの他人に正直に言う気にはなれなかった。

  …それこそ、笑い者だ。

  「なら、いいけど。あの子ね、あんたの学校に坊っちゃん、坊っ

ちゃんした中国人がいるでしょ?あの子といっしょにルーレッ

ト賭博やったらしいのね。最初はよかったらしいけど、ほら

あんなのって、やくざが絡んでるわけだから、最後には借金し

ちゃって、王華の方は『体で返してもらうからなぁ!』って脅

されてたらしいのよねぇ。」

耳の奥で店のママの声がだんだん小さくなっていくような感覚に襲われた。

  …ショック、ショック!ショックーッ!

   だまされた、だまされた。だまされたんだーぁ…。

斉藤は佐伯の話を聞いて思った。

  …もう、佐伯の20万はかえってこないだろう。店のママは本当

に王華のおばさんじゃないのだろうか?それだって怪しい。少

なくとも夫からもらったあの茶封筒だけは李麗麗に渡っていて

ほしい。

あの日、一つ傘に入って帰る、王華と張岩の姿が目に浮かんだ。

  …あの10万だけは李さんに渡したんじゃないだろうか。

斉藤はそれだけは信じてやろうと思う。

  …そうでなければあまりにもむなしい。

「自分が…」なのか、「王華が…」なのか、斉藤にはわからなかった。

 

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2006年6月 1日 (木)

老鼠愛大米NO.51 

● 夕日

 明日からまた学校が始まる。今日は日曜日だというのに、田隈は臨時出勤をさせられた。月曜日のホームルームに必要な資料をそろえたり、担当の先生は全員間違いなく出勤できるのか問い合わせ、出席簿はちきんとそろっているかチェックする。その他いろいろな書類を点検しなければならない。朝からフルに働いて夕方まで作業が続いた。

  …さぁ、そろそろ帰ろうか…。

そう思って目を上げると、事務室の窓に張り付くように男が立っていた。

  「ウヘッ!劉君じゃないですか。びっくりしたなぁ、もう…。

   脅かさないでくださいよ。」

  「田隈先生、話があります。ちょっとこちらへ出てきてください。」

  「なんだぁ、ちょっとおっかないなぁ。まっ、劉君のお願いとあ

れば、きかないわけにはいきませんかねぇ。」

今日の田隈は妙に下手に出る。相変わらずヘラヘラしながら事務室を

出てきた。劉はロビーの真ん中に仁王立ちになって田隈を待っていた。

  「何なの?何かあったんですか。」

また、ヘラヘラ笑いかけたところへいきなり劉の拳が飛んできた。

  …ガツーン!…

不意をつかれて、田隈はヨロヨロとよろけると、ロビーの床に片膝をついたかっこうになった。鼻から血がワッと噴出した。

  「おい、おい、おい!なんでこんなことするかなぁ…。」

さっきとは別人のような恐ろしく陰気な声で田隈が言う。

  「麗麗が強制送還になったぞ。お前のせいだ。」

  「俺のせい?!」

  「そうだ。お前のせいだ。お腹の赤ん坊だって、お前の子どもだ

ろうが。なぜほったらかしにした!」

夕日がロビーの窓から差し込んで劉の足元まで伸びている。

田隈は鼻血を手でぬぐいながらゆっくりと立ち上がると、夕日を背にして劉と向き合う形になった。田隈の白い顔がどす黒く影のように見える。

  「おまえ、こんなことして…。ただではすまないぞ。今度こぞ強制送還してやるからな。」

  「おーっ、やってみろ。その時はこっちだってだまっていないぞ。

   おまえがやったこと、最初からみんなぶちまけてやるからな。」

劉はもう一度拳を強く握り締めた。

  「あれーっ。そう来るわけですかぁ。そりゃぁ困ったなぁ!」

田隈がすっとんきょうな声をあげる。

  …なんだこいつ。ころころ変わって。病気か?…。

  「ほんとは僕、李さんと結婚するつもりだったんですよぉ。」

  「うそだ。」

  「本当です。なんどもそういったんだ。でもだめだった。李さん

はちっとも僕を愛してくれなかった。」

  「だから麗麗を殴ったのか。そんなの理由にならんだろう。」

  「そうなんですよねぇ。分かってたんですけどねぇ。もう、自分ではどうしようもなくてさぁ。」

  …えっ??。

っと思った。田隈が泣いているように見える。いや田隈は確かに泣い

ているのだ。

  「悔しいんだけどね、李さん、あんたが好きだったんですよ、劉君。最初からね、ずーっと。あんたも知ってたんじゃないの、そのこと。ほったらかしにしたのは僕じゃなくてあんたでしょう。それにねぇ、李さんのお腹の子、僕

   の子じゃないって、李さん、がんばるんだなぁ。」

  「何?」

  「お腹の子ですよ。僕の子じゃないなら、あんたの子じゃないん

ですか?」

  「そんなはずないっ!」

  「そうですよねぇ。僕だって信じませんよ。でも李さんは絶対に

僕の子じゃないって。ま、真相は藪の中。藪の中を知っている

のは…。ねぇ、劉君。あの事、ほらホテルであったでしょう。

あの日のこと、僕たち三人だけの秘密なわけですからねぇ。」

 

  ビュウンビュウンビューン。夕日に向かって自転車を走らせる。…待て、待ってくれ。今日を終わらせないでくれ。もう一度もどってくれ。麗麗のお腹の子が俺の子だなんて!

劉は夕日に向かって自転車を飛ばす。もう一度あそこで止まってほし

い。空港のロビーで麗麗に会ったあの瞬間に。

  …そしたら麗麗に訊けるのに。「麗麗、そのお腹の子は、俺の子かって。お前は何も言わすに俺の子を連れて国へ帰って行ったのか。

麗麗の顔が目の前に現れる。ビュンビュンビュン、夕日に向かって走

る。「この子は劉、この子はあ・な・たの子よ」。麗麗の唇が動く。

「あっ!」

自転車の前を何か黒い物が横切った。劉はあわててハンドルを右に切

った。猫だった。

  その時、

  ドーンッ…。

後ろから来た軽トラックが劉を自転車ごと跳ね飛ばした。劉の体は棒

を宙に放り上げたように高く舞い上がると、そのまま頭からアスファ

ルトの道路へ落ちていった。

  「カランコロンコロン」

劉のナップサックから土鈴が転がりでた。ジワーッと熱い液体が劉の

耳から流れ出た。劉がゆっくり土鈴に手を伸ばす。

  …先生、先生…。もう、何も見えない。

空から黒い幕が下りてきたように辺りは真っ暗になった。

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2006年5月30日 (火)

老鼠愛大米NO.50

 故郷の祖父は病院に寝たきりだったが、帰国した劉に勇気づけられ

たのか、少し元気をとりもどした。そう長くはないにしても、少なく

とも劉がいる間は病状が安定していた。

 「いよいよ日本へ旅立つ」という日、劉が病院に祖父を見舞いに行

くと、祖父はめずらしく背中に枕をさし込んでベッドの上に体を起こ

していた。

 「翔、私は元気だよ。…翔が元気でがんばっている限り私は元気に

しているから、安心しなさい。…でももしお前がまじめに勉強し

なかったり、…弱気になったりしたら、、…私もすぐに悪くなって

しまうからね。……しっかり努力しなさい。…それが私の一番の

薬だからね。」

祖父はゆっくりとそれだけ言うと疲れたのか劉の母親に目で合図して、ベッドに横になった。そしてもう一度劉を自分の顔の方へ呼び寄せた。そして小さな小さな声で、劉の耳にささやいた。

  「私が死んでも、葬式に帰ってきてはいかん。日本で勉強をつづ

けなさい。私が死んだら、いつだって好きなときにお前に会い

にいけるから…。」

  劉は祖父に抱きついた。そのまま大声で泣きたかった。しかし泣

かなかった。泣いたら祖父がもっと悲しむ。

 ぱっと顔をあげてきっぱりと言う。

  爷爷,再见

 今生の別れだった。

 福岡空港の一階は、たった今、日本に到着した人たちと、今から外国へ出発しようとする人たちで混雑している。

 劉は空港の中を走るシャトルバスに乗ろうと、バス停の方へ歩いていった。向こうから知った顔が歩いてきた。麗麗だった。手荷物だけを肩からかけて、脇を見知らぬ男につかまれ、引っ張られるように歩いてくる。

  「麗麗。」

劉は二人の前に立ちふさがった。

  「おい、そこをどけっ。」

男が劉を乱暴に押しのけようとする。

  「何ですか。」

劉は男の手を押さえた。

  「お前は誰だ。この女の知り合いか?手を出すな。手を出し

たら、お前もいっしょに強制送還させるぞ。」

男が劉に顔を近づけて低い声で言う。

  「すみません。その人、私の知らない人です。構わないで

   ください。」

麗麗が泣きそうな顔でそういって一人でずんずん先へ行く。男が

あわてて麗麗の腕をつかみなおした。

  「おい、麗麗。どうなってるんだ。」

劉がまた二人を追いかけようとしたとき、麗麗が振り返って口を

動かした。

  「再見!」

あの時と同じだった。あのホテルのエレベーターであったときの麗麗と今の麗麗は同じ顔をしている。ただ一つだけ違うこと、それはもう

劉に助けを求めていなかった。「さようなら。劉!もうあなたに会うことはないと思うの」、泣いているのか、笑っているのかわからない麗麗の顔がどんどん小さくなっていった。

  …麗麗…。

 ぼんやりと空港のロビーに立ちつくす劉に、注意を払うものなどだれもいない。

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2006年5月28日 (日)

老鼠愛大米NO.49

空港

 

 劉は福岡空港の国際ターミナルに降り立った。

  …久しぶりの福岡だ。

夏休みが始まる直前に故郷の母から電話が入った。「父方の祖父が肝臓ガンだ。もうそう長くない。今度の夏休み顔を見せに帰ってきてくれないか」ということだった。

夏休みはたくさんアルバイトをして、来年大学に行く費用の足しにしたいと考えていた。しかし大事な祖父が病気とあれば、そんなことも言ってはおられない。

 祖父は小さいころから劉をかわいがってくれた。「日本へ行きたい」と劉が言い出したとき、祖父が真っ先に反対した。祖父には戦争中のつらい思い出がたくさんあるのだ。それでも劉の留学の手続きが済んだ後は、あっさりと自分の意見を引っ込めた。そして、劉が日本へ行くと決まった日から毎日、自ら劉に餃子の作り方を教えた。

 

ボールに小麦粉を入れる。小麦粉の真ん中に水を少しずつ加えながら、一つにまとめてからこね始める。力を入れてこねる。このこね方が足りないと伸ばすときに薄く伸びない。こねる時間、力加減は勘が頼りだ。こねた後1時間ほど寝かしてから、今度は粉を棒状にし、その棒状にしたものを左手に持ち、右手の親指と人差し指、中指を使って一口大にちぎっていく。ちぎったものをもう一度小さなボール状にまとめて、いよいよ伸ばす作業に取り掛かる。

 これからが更に熟練を要する仕事だ。劉は祖父の横に立って祖父が丸いボールから平たい円状の皮に仕上げていく様を観察する。

粉をふった台の上にさっきの小麦粉のボールをのせ、上から押しつぶすと直径3cmほどの平たい円状になる。これを左手の親指と人差し指で挟んで台の上で少しずつ回転させながら、右手に持った麺棒で伸ばしていく。右手の麺棒は上下にのみ動かす。

 祖父は台の上に置いた50個ほどのボールをあっという間に薄い円状の皮に伸ばしてしまった。どの皮もほとんどくるいのない円状でしかも同じ大きさにそろっていた。

「日本へ行ったら、みんなにかわいがってもらいなさい。

そしてお世話になった日本人に本場の餃子を作って喜んで

もらいなさい。」

劉は祖父の教えを守った。日本語学校で劉ほどうまく餃子の皮を伸ばすことができるものは他にいない。

  …早く帰ってやらなければ。爷爷(おじいさん)が待っている。

 直美は劉が帰国するときに「空港まで送って行きたい」と思った。

しかし、空港には帰国しようとする学生がたくさん集まる。もし劉といっしょにいるところを見られたら大変だ。それに、居酒屋「よらんね」で斉藤にたしなめられたこともあった。結局見送りを断念した。

 空港から劉が電話をかけてきた。

 「先生、今から国へ帰ります。また日本に戻ってきたとき、先生に話したいことがあります。」

 「そう…。私もあなたに話したいことがあるの。じゃぁ、おじいさんのこと大事にしてね。」

 「はい。ありがとうございます。」

 「祝你一路平安。(道中気をつけて)」

直美は劉に中国語で別れを言った。

  …先生の声を中国語で聞くともっと優しい。

心に染み入るような声だった。

「カランコロンコロン…」

背中のナップサックの中で博多人形の工房でもらった土鈴が小さく

鳴った。

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2006年5月25日 (木)

老鼠愛大米NO 48

斉藤が面会室からロビーに戻ってくると、王華と張岩が隅のソファーに座って小声でしきりに話し合っていた。斉藤が戻ってきたことも気づかない様子だ。

  「王華さん。」

斉藤の声に二人はあわてて立ち上がった。

  「先生。お久しぶりです。」

張岩が丁寧にあいさつをした。薄いジャンパーにスラックス。どこか育ちのよさを思わせる顔だち。

  「ああ、張さんも来てくれたんですね。ご苦労様。」

斉藤は少し優しい気持ちになっていた。

  …この二人が付き合っているなんて。なーんか似合わない感じ…。

  「先生、李さん、お金を受け取りましたか。」

王華が心配そうに訊く。

  「受け取らなかったわ。やっぱりわたし、行かない方が良かった

みたい。」

  「そんなことないですよ。李さんは不器用だから、素直にうれしいって言えないんですよ。本当はうれしいんです。」

  …「不器用」なんて言葉、どこで覚えたんだろう。

学校での王華はそれ程優秀ではない。同期の学生と比べたらその成績

はむしろ劣っているほうだ。にもかかわらず、王華の使う言葉はいつ

もどことこなくこなれている。

  …だから、怪しい。水商売のアルバイトでもしているんじゃ

ないのか。

  「先生!」

急に王華が入り口のドアの方を指差した。なんと、事務長の八田が顔のところで手をヒラヒラさせながらこちらへ歩いてくるではないか。

  「あっ!」

三人は何か悪いことでもしたかのように、反対側のドアに向かって同時に歩き出した。

  「どうします?」

王華が斉藤の腕をつかんで耳元でささやく。

  「とにかく外へ出ましょう。」

  …こんなところを八田に見られたらまずい。

三人とも同じ事を考える。別にやましいことがあるわけではない。それでも真っ当な生活をしているものがいるところではない、そんな風に思わせる何かがこの場所にはある。

  三人は建物の影に隠れるようにして立った。

  「王華さん、このお金どうしよう。」

斉藤がさっきカバンにしまった封筒をもう一度取り出して言う。

  「李さんが出発するのは午後3時ぐらいになるそうです。

私たちは一度家へ帰ってからまた来ます。先生はどうしま

すか。」

  「もう、わたしは李さんに会わないほうがいいと思うから、悪い

けどこれ李さんに渡しておいてくれる?」

  「ええ。」

   …早くここから離れたい。

そんな気分に駆られた。

  「ところで、李さん妊娠していたみたいだけど。知ってる?」

  「さーぁ?」

王華がとぼけた声で言う。

  「王さん、あなた知ってたんじゃないの?」

 「知りません。でもだれかと付き合っていたことだけは確かです。」

  …田隈だ!

  「でも、李さんはそれがだれか絶対言いません。」

  「で、どうしているのかしら?その人。」

  「もしかして、先生の方が知ってるんじゃないですか。もしその人がいたら、李さん、あんなところでつかまって、強制送還されたりしなかったと思います。」

  …「あんなとこ」って、どんなとこよ!

また、怒りが湧き上がってきた。

  …どうせあなたが紹介したんでしょう。

雨が降ってきた。王華と張岩は一つの傘に入って帰る。斉藤は二人と

反対方向に帰っていく。しばらく行ってもう一度後ろを振り返った。

王華がさっきのロビーのときのように、しきりに張岩に話しかけてい

た。張岩は「イヤイヤ」でもするように首を横に何度も振った。

  …なんだろう。あの二人、今渡したお金をちゃんと李さんに渡してくれるだろうか。

かすかな不安が斉藤の胸によぎった。

  …まっ、いいか…。とりあえずわたしはわたしのできることをしたんだし…。

雨脚が強くなった。斉藤はガード下を、向こうから走ってくるタク

シーに大きく手を振った。

  …すみませーん。早くわたしをここから連れ出してくださーい。

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2006年5月23日 (火)

老鼠愛大米 NO.47

    麗麗は相変わらずほっそりとして、こんなところに入れられたせいもあってか、化粧気のない顔はいつもよりもっともっと青白かった。

 斉藤が麗麗に声をかける。

  「李さん。」

うつむいていた李麗麗が始めて顔を上げた。そして相手がだれか確認したのか、眼をパチパチとしばたかせるとひどく驚いて叫んだ。

  「えーっ。なぜですかーぁ。先生、こんなところに来てほしく

なかったのにぃー。なんで来るんですかぁ。」

言い終わらないうちに、がまんができなくなって、わっと泣き出した。

  …ほら、だから来たくなかったのに。王華!

大いに動揺しながら、目の前の麗麗よりも。またしても王華にしてやられたことに激しい怒りと覚えた。

 「あのね、李さん。これが最後じゃないのよ。国でしっかり勉強し

てまた日本に来てちょうだい。待ってるからね。」

強制送還された者は二度と日本に来ることはできない。そのことはわかっている。しかしそう言うしかないではないか。麗麗は相変わらずガラスの向こうで下を向いたまま泣いている。

 「李さん、これ帰るときに使って。帰ってから少しは役に立つと

  思うの。」

斉藤は夫からもらった茶封筒をガラスの下の隙間から、麗麗の方へ

押しやった。すると、麗麗はぱっと泣き止み、顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔を手の甲でぬぐう。

  「先生、何ですか、これ。私はこんなことになって、とても恥ずかしいです。先生がわざわざ来てくれたことも、、もっと恥ずかしいです。そして先生が私にお金をくれるなんて、もっともっと恥ずかしい。ああ、このまま死んでしまいたいくらい侮辱された気がします。」

 さっきまで青白く悲しみに打ちひしがれていた麗麗の顔が今度は悔しさで赤くなった。唇を切れるほどに噛んでいる。

 

 「そ、そうじゃないのよ。王華さんがね、あなたのことを心配して。」

 「先生!」

突然、麗麗が斉藤のことばをさえぎった。

 「何?」

 「先生たちはとても優しかったです。みなさんにありがとうござい

ましたといいたいです。」

それだけ言うと麗麗はもう斉藤を見ずに立ち上がって、ドアの方に歩いていった。

  …うん?麗麗のお腹?…。少し大きくないか?

後ろを向く瞬間の麗麗を見逃さなかった。

  …麗麗は妊娠している??

斉藤は押し戻された茶封筒を無意識にかばんの中にしまいながら、混乱した頭の中で、母親になったものだけがわかる不思議な信号を受け止めていた。

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