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2006年5月30日 (火)

老鼠愛大米NO.50

 故郷の祖父は病院に寝たきりだったが、帰国した劉に勇気づけられ

たのか、少し元気をとりもどした。そう長くはないにしても、少なく

とも劉がいる間は病状が安定していた。

 「いよいよ日本へ旅立つ」という日、劉が病院に祖父を見舞いに行

くと、祖父はめずらしく背中に枕をさし込んでベッドの上に体を起こ

していた。

 「翔、私は元気だよ。…翔が元気でがんばっている限り私は元気に

しているから、安心しなさい。…でももしお前がまじめに勉強し

なかったり、…弱気になったりしたら、、…私もすぐに悪くなって

しまうからね。……しっかり努力しなさい。…それが私の一番の

薬だからね。」

祖父はゆっくりとそれだけ言うと疲れたのか劉の母親に目で合図して、ベッドに横になった。そしてもう一度劉を自分の顔の方へ呼び寄せた。そして小さな小さな声で、劉の耳にささやいた。

  「私が死んでも、葬式に帰ってきてはいかん。日本で勉強をつづ

けなさい。私が死んだら、いつだって好きなときにお前に会い

にいけるから…。」

  劉は祖父に抱きついた。そのまま大声で泣きたかった。しかし泣

かなかった。泣いたら祖父がもっと悲しむ。

 ぱっと顔をあげてきっぱりと言う。

  爷爷,再见

 今生の別れだった。

 福岡空港の一階は、たった今、日本に到着した人たちと、今から外国へ出発しようとする人たちで混雑している。

 劉は空港の中を走るシャトルバスに乗ろうと、バス停の方へ歩いていった。向こうから知った顔が歩いてきた。麗麗だった。手荷物だけを肩からかけて、脇を見知らぬ男につかまれ、引っ張られるように歩いてくる。

  「麗麗。」

劉は二人の前に立ちふさがった。

  「おい、そこをどけっ。」

男が劉を乱暴に押しのけようとする。

  「何ですか。」

劉は男の手を押さえた。

  「お前は誰だ。この女の知り合いか?手を出すな。手を出し

たら、お前もいっしょに強制送還させるぞ。」

男が劉に顔を近づけて低い声で言う。

  「すみません。その人、私の知らない人です。構わないで

   ください。」

麗麗が泣きそうな顔でそういって一人でずんずん先へ行く。男が

あわてて麗麗の腕をつかみなおした。

  「おい、麗麗。どうなってるんだ。」

劉がまた二人を追いかけようとしたとき、麗麗が振り返って口を

動かした。

  「再見!」

あの時と同じだった。あのホテルのエレベーターであったときの麗麗と今の麗麗は同じ顔をしている。ただ一つだけ違うこと、それはもう

劉に助けを求めていなかった。「さようなら。劉!もうあなたに会うことはないと思うの」、泣いているのか、笑っているのかわからない麗麗の顔がどんどん小さくなっていった。

  …麗麗…。

 ぼんやりと空港のロビーに立ちつくす劉に、注意を払うものなどだれもいない。

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2006年5月28日 (日)

老鼠愛大米NO.49

空港

 

 劉は福岡空港の国際ターミナルに降り立った。

  …久しぶりの福岡だ。

夏休みが始まる直前に故郷の母から電話が入った。「父方の祖父が肝臓ガンだ。もうそう長くない。今度の夏休み顔を見せに帰ってきてくれないか」ということだった。

夏休みはたくさんアルバイトをして、来年大学に行く費用の足しにしたいと考えていた。しかし大事な祖父が病気とあれば、そんなことも言ってはおられない。

 祖父は小さいころから劉をかわいがってくれた。「日本へ行きたい」と劉が言い出したとき、祖父が真っ先に反対した。祖父には戦争中のつらい思い出がたくさんあるのだ。それでも劉の留学の手続きが済んだ後は、あっさりと自分の意見を引っ込めた。そして、劉が日本へ行くと決まった日から毎日、自ら劉に餃子の作り方を教えた。

 

ボールに小麦粉を入れる。小麦粉の真ん中に水を少しずつ加えながら、一つにまとめてからこね始める。力を入れてこねる。このこね方が足りないと伸ばすときに薄く伸びない。こねる時間、力加減は勘が頼りだ。こねた後1時間ほど寝かしてから、今度は粉を棒状にし、その棒状にしたものを左手に持ち、右手の親指と人差し指、中指を使って一口大にちぎっていく。ちぎったものをもう一度小さなボール状にまとめて、いよいよ伸ばす作業に取り掛かる。

 これからが更に熟練を要する仕事だ。劉は祖父の横に立って祖父が丸いボールから平たい円状の皮に仕上げていく様を観察する。

粉をふった台の上にさっきの小麦粉のボールをのせ、上から押しつぶすと直径3cmほどの平たい円状になる。これを左手の親指と人差し指で挟んで台の上で少しずつ回転させながら、右手に持った麺棒で伸ばしていく。右手の麺棒は上下にのみ動かす。

 祖父は台の上に置いた50個ほどのボールをあっという間に薄い円状の皮に伸ばしてしまった。どの皮もほとんどくるいのない円状でしかも同じ大きさにそろっていた。

「日本へ行ったら、みんなにかわいがってもらいなさい。

そしてお世話になった日本人に本場の餃子を作って喜んで

もらいなさい。」

劉は祖父の教えを守った。日本語学校で劉ほどうまく餃子の皮を伸ばすことができるものは他にいない。

  …早く帰ってやらなければ。爷爷(おじいさん)が待っている。

 直美は劉が帰国するときに「空港まで送って行きたい」と思った。

しかし、空港には帰国しようとする学生がたくさん集まる。もし劉といっしょにいるところを見られたら大変だ。それに、居酒屋「よらんね」で斉藤にたしなめられたこともあった。結局見送りを断念した。

 空港から劉が電話をかけてきた。

 「先生、今から国へ帰ります。また日本に戻ってきたとき、先生に話したいことがあります。」

 「そう…。私もあなたに話したいことがあるの。じゃぁ、おじいさんのこと大事にしてね。」

 「はい。ありがとうございます。」

 「祝你一路平安。(道中気をつけて)」

直美は劉に中国語で別れを言った。

  …先生の声を中国語で聞くともっと優しい。

心に染み入るような声だった。

「カランコロンコロン…」

背中のナップサックの中で博多人形の工房でもらった土鈴が小さく

鳴った。

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2006年5月25日 (木)

老鼠愛大米NO 48

斉藤が面会室からロビーに戻ってくると、王華と張岩が隅のソファーに座って小声でしきりに話し合っていた。斉藤が戻ってきたことも気づかない様子だ。

  「王華さん。」

斉藤の声に二人はあわてて立ち上がった。

  「先生。お久しぶりです。」

張岩が丁寧にあいさつをした。薄いジャンパーにスラックス。どこか育ちのよさを思わせる顔だち。

  「ああ、張さんも来てくれたんですね。ご苦労様。」

斉藤は少し優しい気持ちになっていた。

  …この二人が付き合っているなんて。なーんか似合わない感じ…。

  「先生、李さん、お金を受け取りましたか。」

王華が心配そうに訊く。

  「受け取らなかったわ。やっぱりわたし、行かない方が良かった

みたい。」

  「そんなことないですよ。李さんは不器用だから、素直にうれしいって言えないんですよ。本当はうれしいんです。」

  …「不器用」なんて言葉、どこで覚えたんだろう。

学校での王華はそれ程優秀ではない。同期の学生と比べたらその成績

はむしろ劣っているほうだ。にもかかわらず、王華の使う言葉はいつ

もどことこなくこなれている。

  …だから、怪しい。水商売のアルバイトでもしているんじゃ

ないのか。

  「先生!」

急に王華が入り口のドアの方を指差した。なんと、事務長の八田が顔のところで手をヒラヒラさせながらこちらへ歩いてくるではないか。

  「あっ!」

三人は何か悪いことでもしたかのように、反対側のドアに向かって同時に歩き出した。

  「どうします?」

王華が斉藤の腕をつかんで耳元でささやく。

  「とにかく外へ出ましょう。」

  …こんなところを八田に見られたらまずい。

三人とも同じ事を考える。別にやましいことがあるわけではない。それでも真っ当な生活をしているものがいるところではない、そんな風に思わせる何かがこの場所にはある。

  三人は建物の影に隠れるようにして立った。

  「王華さん、このお金どうしよう。」

斉藤がさっきカバンにしまった封筒をもう一度取り出して言う。

  「李さんが出発するのは午後3時ぐらいになるそうです。

私たちは一度家へ帰ってからまた来ます。先生はどうしま

すか。」

  「もう、わたしは李さんに会わないほうがいいと思うから、悪い

けどこれ李さんに渡しておいてくれる?」

  「ええ。」

   …早くここから離れたい。

そんな気分に駆られた。

  「ところで、李さん妊娠していたみたいだけど。知ってる?」

  「さーぁ?」

王華がとぼけた声で言う。

  「王さん、あなた知ってたんじゃないの?」

 「知りません。でもだれかと付き合っていたことだけは確かです。」

  …田隈だ!

  「でも、李さんはそれがだれか絶対言いません。」

  「で、どうしているのかしら?その人。」

  「もしかして、先生の方が知ってるんじゃないですか。もしその人がいたら、李さん、あんなところでつかまって、強制送還されたりしなかったと思います。」

  …「あんなとこ」って、どんなとこよ!

また、怒りが湧き上がってきた。

  …どうせあなたが紹介したんでしょう。

雨が降ってきた。王華と張岩は一つの傘に入って帰る。斉藤は二人と

反対方向に帰っていく。しばらく行ってもう一度後ろを振り返った。

王華がさっきのロビーのときのように、しきりに張岩に話しかけてい

た。張岩は「イヤイヤ」でもするように首を横に何度も振った。

  …なんだろう。あの二人、今渡したお金をちゃんと李さんに渡してくれるだろうか。

かすかな不安が斉藤の胸によぎった。

  …まっ、いいか…。とりあえずわたしはわたしのできることをしたんだし…。

雨脚が強くなった。斉藤はガード下を、向こうから走ってくるタク

シーに大きく手を振った。

  …すみませーん。早くわたしをここから連れ出してくださーい。

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2006年5月23日 (火)

老鼠愛大米 NO.47

    麗麗は相変わらずほっそりとして、こんなところに入れられたせいもあってか、化粧気のない顔はいつもよりもっともっと青白かった。

 斉藤が麗麗に声をかける。

  「李さん。」

うつむいていた李麗麗が始めて顔を上げた。そして相手がだれか確認したのか、眼をパチパチとしばたかせるとひどく驚いて叫んだ。

  「えーっ。なぜですかーぁ。先生、こんなところに来てほしく

なかったのにぃー。なんで来るんですかぁ。」

言い終わらないうちに、がまんができなくなって、わっと泣き出した。

  …ほら、だから来たくなかったのに。王華!

大いに動揺しながら、目の前の麗麗よりも。またしても王華にしてやられたことに激しい怒りと覚えた。

 「あのね、李さん。これが最後じゃないのよ。国でしっかり勉強し

てまた日本に来てちょうだい。待ってるからね。」

強制送還された者は二度と日本に来ることはできない。そのことはわかっている。しかしそう言うしかないではないか。麗麗は相変わらずガラスの向こうで下を向いたまま泣いている。

 「李さん、これ帰るときに使って。帰ってから少しは役に立つと

  思うの。」

斉藤は夫からもらった茶封筒をガラスの下の隙間から、麗麗の方へ

押しやった。すると、麗麗はぱっと泣き止み、顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔を手の甲でぬぐう。

  「先生、何ですか、これ。私はこんなことになって、とても恥ずかしいです。先生がわざわざ来てくれたことも、、もっと恥ずかしいです。そして先生が私にお金をくれるなんて、もっともっと恥ずかしい。ああ、このまま死んでしまいたいくらい侮辱された気がします。」

 さっきまで青白く悲しみに打ちひしがれていた麗麗の顔が今度は悔しさで赤くなった。唇を切れるほどに噛んでいる。

 

 「そ、そうじゃないのよ。王華さんがね、あなたのことを心配して。」

 「先生!」

突然、麗麗が斉藤のことばをさえぎった。

 「何?」

 「先生たちはとても優しかったです。みなさんにありがとうござい

ましたといいたいです。」

それだけ言うと麗麗はもう斉藤を見ずに立ち上がって、ドアの方に歩いていった。

  …うん?麗麗のお腹?…。少し大きくないか?

後ろを向く瞬間の麗麗を見逃さなかった。

  …麗麗は妊娠している??

斉藤は押し戻された茶封筒を無意識にかばんの中にしまいながら、混乱した頭の中で、母親になったものだけがわかる不思議な信号を受け止めていた。

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2006年5月21日 (日)

老鼠愛大米NO.46

 李麗麗が収監されているという入国管理局の建物は築港にあった。その周辺は近代都市の象徴のような高速道路が頭上をいくつも交差し、各国から船で送られてきた荷を一時格納しておくために作られた、コンクリートの倉庫が隙間なく並んでいる。

…なんと冷たく寂しいところか…。

斉藤は入管の前でタクシーを降り、その殺風景な光景を見回しながら「強制送還されていく外国人が収監される場所として、これ以上にふさわしいところはない」と思う。

 「先生!」

先に来ていた王華が待ちかねたように声をかけた。

 「あ、王華さん。久しぶり。元気でしたか?」

 一応、決まり文句を言う。

  「ええ。」

王華は白いタートルネックのサマーセーターに、茶と黒のチェック模様のサブリナパンツ、素足に赤いパンプスをはいて、小雨が降っていたからか、チャコールグレーの薄いコートを羽織っていた。長い足、耳のところでスパッとボブに切った髪、まるでモデル雑誌から抜け出てきたようにきれいだった。

 …とても強制送還される友だちを助けにきた人には見えない。

化粧もろくにせず、普段着にジャケットで来た自分と比較しながら

斉藤は軽い怒りとも嫉妬とも区別がつかない気分になった。

  「中に入りましょう。予約していますから、李さんにすぐ

   会えます。」

  「李さんに会うんですか?」

  「そうですよ。是非会ってやってください。喜びます。」

  …そうだろうか。

 斉藤は少し不安になった。

…今さら李麗麗と顔をあわせて何になる?麗麗をこの場から救い出すことができるなら別だけれど…。

斉藤がおろおろしている間に、王華は「勝手知ったる我が家」のようなそぶりで、さっさと入管の窓口で手続きを済ませた。

 係りの人が脇のドアから現れ、斉藤たちに向かって手招きをする。

  「じゃ、行きましょうか。」

斉藤が覚悟を決めて王華を促すと、意外にも王はすっと一歩下がって、

  「あの、先生一人で行った方がいいと思います。私はさっき

   会いましたから。それから張さんも、もうすぐここに来ます

   から、私ここで待ってます。」

と言った。

  「張さんって、あなたの友だちの張岩?」

  「ええ。」

「王華と張岩は恋人同士だ」と以前聞いたことがあった。

   …そうか。やっぱりこういうときはみんなで助け合うんだな。

 斉藤は思わず目頭が熱くなるのを覚えた。

 係りの人に案内されて、更に奥のドアを開けて入ると、そこは

小さな箱のような部屋だった。右側に木のベンチが置かれ、ベンチの

前は全面がガラスの板で仕切られ、ガラスの下が5センチぐらい空いていた。その向こう側にこちらのベンチと向き合うように、小さな椅子が置かれている。

   …いつか刑事ドラマでみた拘置所の面会室と同じうようなところだ。

 斉藤は生まれてはじめての光景に少し体が震えた。ベンチに座ると、ガラスの向こう側にある部屋のドアが開いて、李麗麗が入ってきた。

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2006年5月20日 (土)

老鼠愛大米 NO.45

            強制送還

 土曜日の午後、、斉藤は家の中の片付けにかかっていた。来週からまた学校に学生が戻ってくる。そうなると家の仕事をする暇が極端に少なくなる。夏休みの間はそれぞれの本国に帰国していたり、長い休みを利用して旅行したり、アルバイトをしたりするため教師と学生はほ

とんど接触がない。

  …みんな元気で帰って来ますように。

 その時電話が鳴った。夫が電話口に出ている。

  「おい、学校の学生らしいぞ。王なんとかさん。」

  「はーい。」

斉藤は片付けかけた書類をそのままにして電話をとる。

  「先生、おひさしぶりです。お元気でしたか。」

王華だった。王とはあの「保証人事件」以来、口をきいていない。あの時は八田がしぶしぶながら保証人を引き受けたため、王華もそれ以上斉藤にくってかかることもなく済んだ。あれからたまに学校で顔を合わせることがあっても互いに避けるようにして通り過ぎた。

…それなのに今日はなんの電話だろう?

  「先生、李さんがこの前、入管に捕まって、強制送還されること

になったんです。」

  「えっ、本当?なんでまた。」

  …そんな話、学校では聞かなかった。

  「それが、うちのおばさんのスナックで働いていたところに

   警察が抜き打ちでやってきて。」

  「あなたねぇ、まだそんなことやってるんですかぁ。」

  「いや、そうじゃなくて、私は李さんに頼まれたから、おばさん

を紹介しただけです。」

 また、「保証人騒ぎ」のときの、いやーな記憶が蘇る。

  「で、何の用事ですか?」

 斉藤の声がとがった感じに変わった。

  「強制送還のときはみんな飛行機で上海に送られるそうなん

です。」

  「そうね。その話は聞いたことがあるけど。」

  「そしたら李さんの故郷、瀋陽までどうやってかえりますか。」

  「それは、飛行機とか、汽車とか。自分の国なんだから別に

   心配はないでしょう。」

  「いえ、先生。お金です。バイト先からもまだ給料もらってない

し、それに家に帰ってからお金がないと恥ずかしいでしょう。」

  「それはそうねぇ。」

  「だから、先生、すみませんが李さんのためにお金を貸してくれませんか。おばさんから李さんの働いた分ももらいます。そしたら返しますから。」

  …なんだ。

と思った。斉藤は王華に「貸しを返してもらいに来ました」と言われているような気がしてならない。何だか腹立たしいが相手が李麗麗のことだ。かわいそうだとも思う。

  「それで、いくら借りたいの?」

斉藤は不機嫌そうな声で尋ねた。

  「20万もあればいいです。」

  「えーっ、20万!王さん、いくらなんでもそんなお金持って

   ないし、無理よ。」

  「そうですか。でも李さんが可愛そうです。ほんと私が働いて

   返しますから、お願いしますよ。先生10万円でもいいです

から。」

 学生が友だちのために働いてでも何かしてあげたい、と言えば教師のほうもそう無碍には断れない。日本で苦労している学生たちは自分に余裕がある限り、いや余裕などなくても困った学生を助けようとする。斉藤はそんな学生たちをずっと見てきた。結局

「じゃぁ、とりあえず10万円を持って行くから、入管で待って

て。」

と言って電話を切った。

 切った後、猛烈にいやな気分が襲ってきた。今の斉藤には10万円ぐらいなら、無理をすれば作れる。ただ、王華に説得されて金を出すのが嫌だった。

 電話口でそんなことを考えながらぼんやりしていると、夫が声をかけた。

  「どうした?」

  「うん、李さんという学生が強制送還されるので、お金を貸して

   ほしいって言って来て…。ほんといろいろあるわねぇ。日本語学校ってところは。」

斉藤は弱弱しく夫に微笑んだ。

  「いくらだ。」

  「『20万円』って言ってきたんだけど。そんなに手元にないし、

   普通預金を定期にしたばかりだし…。」

  「じゃぁ、これ持って行きなさい。」

 そういいながら、夫が斉藤に茶封筒を手渡す。

  「えっ。」

 開けてみたら、10万円入っていた。

  「いいの?」

  「ああ。たまには奥さん孝行もせんといかんしな。」

夫はめずらしく照れたように笑って、テニスの素振りの格好をしなが

ら奥の書斎に入っていった。

  …ありがとう。

斉藤は胸がジーンと熱くなった。この頃、少しずつ互いの立っている位置、隔たりを確認しあいながら生活できるようになった。

…急がなくっちゃ。

王華に対する不快感はぬぐえなかったが、久しぶりに夫の優しさに後押しされて家を出た。

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2006年5月17日 (水)

老鼠愛大米 NO.44

柴田さんとやさしそうな奥さんが入り口まで出迎えてくれた。白い犬が久しぶりの来客に興奮してか「ワンワン」とほえながらも、ちぎれるように尻尾を振っている。

 この工房では土から博多人形の原型をつくり素焼きをして、サンドペーパーのようなもので表面をツルツルに磨いたあと、色を塗る。人形が完成するまでの全ての工程を行っているのだ。

柴田さんの説明を受けてから、劉たちは最後の工程、色付けをさせてもらうことにした。すでに素焼きが終わって、表面を滑らかにした女の子の人形が用意されていた。劉たちはそれぞれ思い思いの色と柄を人形に絵付けしていく。

 韓国の李さんは、ショッキングピンクの着物に、梅の花の模様、「博多人形」というよりも、「釜山人形」という趣。

 趙は「もっと大きいのを塗ってみたいです。」

とあつかましい。

柴田さんは、大きな目をくりくりさせながら、

  「ほう。」

っと言って、黒田節の人形を出してきた。

  「そんな、これは高級品なんだから、やめなさい、趙さん。

   ねっ、ねっ。お断りして!」

引率の斉藤先生が柴田さんにさかんに謝っている。

   「いやいいですよ。こんなことめったにあることじゃぁないで

すから。」

柴田さんはかえってうれしそうに言う。

   「ありがとうございます。」

趙はすこぶるまじめな様子で、真剣に塗り始めた。

  …日本語の授業もこれくらいまじめにやればもっとうまくなるだろうに。

斉藤はこんなところに来てもやっぱり日本語教師なのだ。

  

  「そろそろお昼にしませんか。」

柴田夫人が手作りのクッキーと庭でとれたブラックベリーで作ったというおいしそうなジャムをお盆に載せて運んでくる。

  鯉が泳ぐ池のまわりに椅子を持ち出してみんなで持ってきた弁当を食べた。どこかで山へ帰るホトトギスの鳴き声がする。

  

  「これもうちで作ったんですよ。」

みんなでお茶を飲みながら休んでいると、柴田夫人が土で作った犬の形をした土鈴を持ってきた。あの白い犬そっくりの愛らしい顔をしている。手のひらにすっぽり入るぐらいのもので、胴体をくりぬき、その中に土の小さなボールが入れてある。振ると「カラカラ、コロン」と懐かしい音がした。

  …直美先生の声と同じだ。

劉は何度も耳のところで鈴を振ってみる。

  …先生は今ごろ何をしているだろう…。

午後からも一仕事して、みんなそれぞれに満足いく人形ができあがった。一つ一つ割れないように紙に包み、箱に入れて持って帰ることになった。

  劉は柴田夫人の所へ行って

  「あの土鈴もほしいんですけど、もらえますか。」

と訊いた。斉藤先生がまたあわてて飛んできて、

  「もう、劉さんまでそんなこといっちゃいけませんよ。ほんとに

   あつかましいでしょう。」

  「大丈夫ですよ。これ、プレゼントしましょうね、」

  「いいえ、だめですよ。じゃ、わたくし、お支払いしますから。

   おいくらでしょう?」

  「いいえ、結構ですよ。喜んでいただけるのでしたら。」

  「いいえ、いいえ!」

柴田夫人は斉藤と押し問答をしながらも、さっさと土鈴を紙に包んで

劉に手渡す。

  「カラン、コロン」

劉の手のひらで土鈴がまた鳴る。

  「ありがとうございます。大事にします。」

劉は夫人に深く頭を下げた。

  「僕、この声が大好きなんです。」

  「あらあら、『声』じゃなくて『音』ですよ。でもほんと、人間の

   声にみたいだわねぇ。」

柴田夫人はニコニコ笑った。

  …はい、坂本先生の声と同じです。

みんなはまた「博多人形工房しばた」の二人と白い犬に見送られて、田んぼ道を帰っていく。どの顔も童心に還って人形と同じに愛らしい。

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2006年5月16日 (火)

老鼠愛大米NO.43

      見学

 劉たち2組のみんなは福岡市郊外にある博多人形の工房に向かっている。

 今日は日本語学校の見学の日だ。1学期に12度、社会見学のためにいろいろなところへ出かける。ビール工場、博多めんたいこ工場、博多町屋、太宰府などだ。今日は二班に分かれて出かけた。一つの班は「ひよこ饅頭」本舗でこの店の名物の「サブレ」を作成体験、もう一つは劉たちが選んだ「博多人形の工房で博多人形を作ろう」だ。

  …俺も先生の組について行きたかったけど。

直美はサブレ作成の引率を担当している。劉は少しだけ後悔していた。しかしこの博多人形作成体験には大いに興味をそそられた。日本にいる間に日本でしか経験できない事をできるだけたくさんしておきたい。

  「博多人形工房しばた」は、佐伯の遠い親戚にあたる人が開いている工房で、もともとは福岡の西区にあったものを20年ほど前にこの地に移したのだそうだ。山の裾野に広がる美しい農村の一角にこの工房が立っている。

  バスを降りてすぐ、田んぼ道を一列につながって歩く。道の両側の畑で稲が青々とした葉を伸ばしている。中国のそれとは違って、くねくねとまがった狭い土地にも隙間なく稲が植えてある。

  …日本人は米の一粒でも大事に食べるはずだ。

 劉はホテルでアルバイトをしていたころを思い出した。食事のとき高田によく言われた。

「劉君、茶碗の米は一粒でも残しちゃいかん。お百姓さんが苦労

して作ってくれた米やけんねぇ。」

高田は食事の作法にもうるさく、いっしょに昼ごはんを食べるときなど、よく劉を叱った。

 「劉君、茶碗の真ん中にそんな風に箸ば立てたらいかんよ。それは

  死んだ人にご飯を供えるときにするったい。」

 「ほら、ご飯に味噌汁をそげんしてかけて食べんと。それは『猫飯』ていうて犬や猫が食べる方法たい。」

劉は口をとがらせて反発する。

 「でも、日本人はお茶漬けをするじゃないですか。味も何にもしな

いお茶をかけて食べるより、こっちの方がよっぽどおいしいし、

栄養もあると思うけど…。」

 「なんば、へりくつ言いようとね。第一、猫や犬はお茶漬けは食べ

ん。」

「へりくつ」は高田の方だと思っても高田に注意されると、いやおうなく従ってしまう劉だった。

  …高田さん、どうしているかなぁ。

田んぼ道をぬけると「博多人形工房しばた」という手作りの看板が見えた。

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2006年5月14日 (日)

老鼠愛大米 NO.42 

      妊娠

 劉は李麗麗のアパートの前に立っていた。部屋には明かりがついていない。まだアルバイトから帰ってきていないらしい。

  …なんのアルバイトをしているのだろう。

近頃、麗麗の服装が少しずつ派手になってきた。時々イアリングや指輪をしていることもある。男の目からみても、それらが安物でないことがわかる。  

  「キーッ!」

不意に劉のすぐ横で自転車が止まった。

  「劉、何してるのぉ?こんなところでぇ…。」

麗麗だった。胸のあいた赤いワンピースに薄い半そでのカーデガン。

なんとなく酒のにおいが息に混じっている。

  「ちょっと聞きたいことがあって…。」

  「そう、じゃぁ、家に寄る?」

  「うん、でも…。」

  「大丈夫よ。襲ったりしないからさっ!」

麗麗はくすくす笑いながら、劉の手をとって引っ張った。麗麗の手は相変わらず肉がなかった。ただ以前のようにカサカサではなく、しとっとして冷たい肌だった。

  

 部屋は思ったより明るい。10畳くらいの板張りの部屋の隅にセミダブルのベッド、反対側に流しがあって、料理ができるようになっていた。麗麗が黄色いポットにジャスミンティーを入れてテーブルの上に置く。

  「劉が好きなお茶で~す。」

わざとおどけた声で言う。

  「聞きたいことって何?」

  「うん。おまえ、体中にあざがあるんだってな。」

  「だれに聞いたの?」

  「坂本先生がそう言ってた。」

  「そう、劉は坂本先生が好きなんでしょう?」

 

…えっ?なんで知ってんだ?

訊こうとしてやめた。そんなこと麗麗には言えない。

  「俺は、麗麗のあざのことを訊いてる。だれがつけたんだ。田隈

か?」

  「『そうだ』って言ったら、どうする?」

  「どうするって?」

  「わたしのために田隈に仕返ししてくれるかって訊いてるのよ。

劉、殴られたのがわたしじゃなくて、直美先生だったら、どう?

絶対許せないでしょ?田隈のこと。」

  「なんでそんなこと言うんだ。第一おまえと坂本先生を比較する

ことじたい、おかしいと思うけど。」

  「そうよね。先生は特別よね。わたしなんかと違って。きれいだ

し、日本人だし。」

  「それ、どういう意味なんだ?日本人だったらどうだって言うん

だ。」

  「劉にだってわかってるんじゃないの。日本人と結婚したら楽で

しょう。もうビザのことなんか心配しなくて済むもの。」

  「バカだなぁ。俺はそんなこと考えたこともないよ。」

  「そうかなぁ。わたしは考えるけど。田隈もよくそう言うのよ。

   俺と結婚したらビザの心配しなくていいだろうって。」

  「あんな奴と結婚なんかするな!」

  「結婚するかしないか、劉が決めることじゃないでしょう。」

  「じゃぁ、もう決めたのか。結婚するって!あんな暴力男と。」

  「そんな、暴力男なんて言わないでよ。それに最近はそうでもな

いんだから。赤ちゃんができたことがわかったからね。」

  「えっ!赤ちゃん…。」

  「そう、赤ちゃんができたの。イヤね。そんなに見てもまだわか

らないわよ。」

劉が麗麗の腹をくいいるように見つめる。

   …赤ちゃん?!

そう言われてみれば、麗麗の顔がなんとなく丸みを帯びて見える。

…先入観なのかも知れない。実際そうなのだろうか?

若い劉にはとんと見当もつかない。

  「で、どうするんだ。ほんとに結婚するのか?」

  「さぁ、決めてないの。」

麗麗は両肘をテーブルについて、両手の中に顔をうずめて劉を見つめる。

…ずいぶんと色っぽくなったもんだ。

しかもこんな事態なのに麗麗は妙に落ち着いている。その表情の一つ一つには不思議な自信と満足感があった。

  …赤ん坊ができたらこんなに変わるのか?… 女はわからん。

劉はまた思う。

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2006年5月13日 (土)

老鼠愛大米 NO.41

 「直美さん、お昼のことだけど。」

男の話が一段落すると、斉藤は直美の方に向き直って話を切り出した。

  「ええ…。」

直美は斉藤が何を言うのかもう分かっている。斉藤が言うことはいつも間違いない。間違いないからおもしろくない。

…特に今日は…。

  「あれは、まずかったわね。校長宛に手紙を出したの。」

  「そうですか。」

  「そうよ。校長は非常勤なんだから、たとえ読んだとしても自分

じゃなんにもしないのよ。全部八田さんにまかせるに決まって

るじゃないの。」

  「そうなんですか。そんなことまではわかりませんし…。」

  「それに、あなた学生と付き合ってるわけ?」

  「いえ、付き合うところまでは行ってません。」

  「それってどういう意味?」

  「だから、お互いに冗談ぽく、『好きです』みたいなことを告白しただけです。」

  「それだって、まずいんじゃないの?『学生と教師』、前から話してるわよねぇ。」

  「ええ。でも人間の感情ってそんなに理屈でばかり考えられないと思うけど…。」

  

…若いのよ、あなたは。

斉藤はいらだってきた。

…なんでこんな小娘みたいな考え方しかできないんだろう。直美

はもうそういう年齢じゃないだろうに…。

  

「主任は国際結婚についてどう思いますか?」

直美がふいに質問してきた。

  「どう思うって?賛成か反対かってこと。」

  「いえ、どんなトラブルがあると思います?」

「そりゃぁ、子どもができたときが一番問題になるでしょう

ねぇ。」

  

…子どもか…。わたしと劉が結婚して子どもが生まれたとしたら、

その子はどちらの国の子どもとなるのだろうか。

直美は劉の言葉を思い出していた。

  「僕の日本の恋人は、僕といっしょに中国へ来てくれるでしょう

か。」

  …「日本の恋人」、わたしのことか?

  

  「まぁ、どちらにしても、今はまずいわね。その学生はまだ学校

に在籍してるわけでしょう?」

  「はい。」

  「それじゃぁ、やっぱり他の学生の手前もあることだし、しばら

くあなたの中の恋愛感情を抑えておくしかないってことよ。授

業がうまくいかなくなるから。」

  「ええ。」

直美はぼんやりと壁に貼ってある少女の写真をみつめる。

  …あなたももう大きくなったでしょうね。恋してる?今でもそん

なに澄んだ眼で愛する人を見つめてるといいけど。

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2006年5月11日 (木)

老鼠愛大米 NO.40

      福助

 斉藤と直美は居酒屋「よらんね」のカウンターに座った。奥から2番目の席だ。いつも予約席だった一番奥のカウンターには博多人形の「福助」が置いてあり、「いらっしゃいませ」の格好でお辞儀をしている。

  「あんたたち、なんであそこに福ちゃんが置いちゃーかしっとう

ね。知ってますか?

また、例の常連客が話しかけてくる。今日は一人。話し相手がほしいらしい。

  「あの福田さんくさ、本当は写真家じゃなかったらしいったい。

   御供所町のところに聖福寺ていう寺があろうが、あそこの前に

   印刷屋さんがあったったい。今はもうつぶれてからないっちゃ

けど。そこの社員やったらしいちゃんね。で、たまたまそこで

写真集ば印刷したときにもらった写真をここの大将にやったげ

な。それがあの写真たい。」

男は壁に貼ってある、兵士と子どもの写真を指差しながら続ける。

  「そんときに、大将がえらい喜んで、なんば勘違いしたかしらん

ばってん、『福田さんはすごい写真ばとらっしゃーとですねぇ』

って言うたもんやけん、福田さんもちょっとは酔-っとったせ

いもあってくさ、『うん、ときどきはラオスやらカンボジアにい

くとよ』て言うてしもうたってことらしい。」

  「で、本当にラオスに行かれたわけですかぁ?」

斉藤が目をまるくして聞き返す。

  「いや、そうじゃなかと。3年前印刷会社がつぶれたけん、福田

さん久留米の方で再就職しとんしゃったんやけど、最近たまた

ま福岡に用事できたとき、懐かしくなって『よらんね』に来ん

しゃったげな。」

  「ひゃーっ。大変なことになりましたねぇ。おやじさん、どうだ

ったんですか?」

  「どうもこうもなか!うれしくて、うれしくて、『福ちゃん、よう帰って来た』って男泣きに泣きんしゃったと。」

おやじさんはそれから、「福ちゃんがラオスから帰ってくるまで」と3年間予約にしていた席に福田を案内した。福田は事の次第を聞いて仰天した。今更「私は写真家ではありません」と言えるわけがない。その場をどうにか繕って帰ったという話だった。1ヶ月ほどして、居酒屋「よらんね」に一つの荷物が届いた。中に一通の手紙と博多人形の「福助」が入っていた。男は手酌で杯に酒を注ぎながら続ける。

「手紙には『おやじさん、僕を待ってくれてありがとう。でも僕

は写真家なんかじゃありません。ほんとうにごめんなさい』

って書いちゃったげな。」

  「それで、おやじさんわかったんですか、福田さんの正体?」

  「そりゃ、その手紙だけじゃわからんやろう。でもおやじさんは

あのカウンターに「福助」を飾ったと。」

「あのー、福田さんは『福助』と『福田』をかけたつもりで

しょうか。」

「そげんやろうね。おやじさんもそれはわかったっちゃないかいな。わかったんではなかろうか)。お客さんが『あの席あいてますかぁ』て訊いたら、前といっちょんぜんぜん変わらんごというとよ。『ああ、すんまっしぇんねぇすみませんねぇ、そこは予約席やもんやけん』って。あんまりそれが続いて、ややこしくなったっちゃないかいな。あそこに『福助』ば飾って永久予約席にしてしもうたとよ。おかしかろうが…。」

男はそういいながら、ちっともおかしくなさそうに、

「博多の女(ひと)ばもう一杯!お湯割にして。」

焼酎を注文した。今日はカウンターにおやじさんの姿がない。代わりに若い男が威勢良く「へいっ!」と返事した。

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2006年5月10日 (水)

老鼠愛大米 NO.39

…何が「旅の恥」だ。麗麗は「旅」をしに日本に来たんじゃない。

田隈のどこが可愛そうなのだ!

 直美はこの部屋を飛び出したい衝動に駆られた。

…このまま走って帰りたい!

その時八田が大きな声を更に大きくして付け加えた。

「坂本先生、人の悪口をいうより、自分の行動を慎みなさいよ。」

  「えっ!どういう意味ですか。」

  「李さんのこと話してくれた学生、あんたの恋人ですかぁ?舞鶴

公園なんかを学生と肩を組んで歩いたら、人の噂に上りますか

らねぇ。それじゃ!」

 八田は直美が出した報告書を「ビリッ」と二つに破くと、鬼の首で

もとったように誇らしげに、校長室を出て行った。

直美は立ち上がれずにいた。

…私は八田が言うようなやましい事をしたのだろうか。田隈と比

べられるような悪い事をしたのだろうか。

悔しさが更につのった。

 「坂本さん、今晩飲みましょうか。7時に例の店で待ってるから。」

 斉藤が直美の肩にそっと手を置いて言った。

…そんな気分になれない。このまま一人で帰りたい。

しかし、直美はコクッとうなずいた。

「じゃ、後でね。」

 斉藤は大きくため息をつくと八田の後を追った。

…またきっとこの事で何週間もネチネチ、ネチネチ、嫌味を言わ

れ続けることだろう。

「何事も常識の範囲内!っていつも若いもんには言っているん

ですがねぇ。この常識ってのがわからん奴が最近多すぎます

なぁ!校長先生!」

 職員室で、たった今授業から帰ってきた田中校長を捕まえて八田ガ

ラスが「アホー、アホー」と口をパクパクさせている。

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2006年5月 8日 (月)

老鼠愛大米 NO.38

八田は誰を見ても「あいつはアホーだ」を連発する。誰かの形容をするときは必ず「アホの○○」から始まり、何かの話の締めくくりはほとんど「あいつはアホだ、こいつはアホーだ」で終わる。自分以外の人間は、全てバカだと信じているのだ。

…そう言えば八田はカラスに似ている。

ある時斉藤は気がついた。黒くとがった顔、陰気な目、黙っていても

「アホー、アホー」とつぶやいているようなとがった口。カラスを飼

うと面白い習性に気がつくそうだ。ご主人が外出すると必ず主人がい

つも座っている席に代わって自分が、座っているそうだ。八田は田中

校長がいないとき、いつもこの校長室を自分のもののように使用し、校長の席に座っている。

…やっぱり、カラス。

今も田中校長の席に座って書類に目を通している八田を見ながら思う。

斉藤は小さいころカラスに襲われたことがある。電信柱の上で「アホ、アホ、アホー」と気持ちよく鳴いているカラスをからかってみた

くなった。斉藤はカラスに向かって叫ぶ。

「何がアホーだよーっ。おまえがアホーだよ。アホー、アホー。」

斉藤は満足だった。子ども心に思う。

…このアホーって響き、結構うまいじゃん…

そのときだった、なんとカラスが斉藤を見下ろした。首を少し傾け、ピョンと飛んだかと思うと、斉藤めがけてそのまま急降下してきた。「あっ!」斉藤は逃げようとした時、目の前の石につまずいて転んだ。「うわっ!」思いっきりひざを打った。カラスは斉藤の頭上すれすれを飛んで行った。斉藤はもうカラスのことなど忘れている。打ったひざが割れるように痛かったのだ。「わーん、わーーーん」斉藤は近所のおばさんが驚いて飛んで来るほど大声で泣いた。

あの時のカラスの顔が、今の八田の顔にダブル。

…カラスそっくり。

 その時、坂本が校長室に入ってきた。八田は読んでいた書類を脇において、もったいぶって言う。

 「あぁ、坂本先生、そこに座ってください。」

 

 直美は校長の机の前に据えられた席にすわった。正面の校長席に八田、右側に斉藤が何かノートを開いて座っている。

  …まるで、裁判を受けているみたい。

 「坂本先生、あなたなぜここに呼ばれたかわかってますか?」

 「いえ。」

 「そうですか。この手紙のことだけど。」

八田が右手においた封書を指差す。

 「あぁ、それならわかります。」

 「あのねぇ、あなたこんなことしてもらっちゃ、困るんですよぉ。

ここにある李麗麗さんのことね。田隈がどうのこうのしたってこ

と?これ、何か証拠でもあるんですか。」

「いえ。でも学生から聞きました。」

「で、その学生ってのは?」

 「そこまでは…。」

  …何の話だろうか?

斉藤は不安な気持ちになる。

  …いったい何のこと?

八田からは何も聞かされていなかった。

 「そう…。でも一方的な報告じゃねぇ。信憑性に乏しいでしょう。」

 「ですから、調べてください、とお願いしているんです。李さんの

勉強態度にもかかわることですから。八田先生、李さんのこと田

隈さんに聞いていただいたんですか。」

 「もちろん、聞きましたよ。本人は全く身に覚えがないと言っとる

んだから。」

 「じゃ、李さんはどうですか。」

  直美はだんだん苛立ってきた。これじゃぁ、あの事件を報告した

直美の方が悪いような言われ方だ。

 「あのね、あんたアホっ…と言ったら失礼だが、少し大人気ないん

じゃないのかなぁ。田隈と体の関係があるんですか?って李さん

に聞け、と言うんですか。もし万が一そうであっても、李さんが

『はい、そうです』と言いますか。いや、もし『はい、私は田隈

さんと体の関係があります。そして暴力も受けています』と言わ

れた方がもっと大変だ。下手に藪をつついたばかりに蛇を出すこ

とになりますよ。あいつらは『訴えてやる』、とか『金を出せ』と

か平気でいいますからねぇ。それこそ国際問題ですよ。」

  

直美はもう、完全に後悔していた。これはもともと、学校宛に出し

た手紙だ。宛名は「田中校長」にしていた。

  …それがなぜ八田に?

 八田の説教がまだ続く。

  「あのね、例えあなたの言うとおりだとしますよね。それでもこ

んな報告を学校側にしたら、田隈君が傷つくでしょう。李さん

は傷物になってもですよ、いずれ中国に帰ればそれで済むこと

でしょう。『旅の恥は掻き捨て』ってことですよ。田隈君は日本

人だ。どこへも帰るところはないんですよ。可愛そうだと思わ

んですか。」

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2006年5月 7日 (日)

老鼠愛大米 NO.37

      カラス

 月曜日の職員会議の後、斉藤は校長室に呼ばれた。斉藤が校長室へ入っていくと、正面の広い机に八田がどかっと腰を下ろしていた。

 九州日語学院の校長の田中は非常勤だ。校長といっても名ばかりで以前は高校の国語教師をしていたそうだ。

「私は国語の教師でしたから、当然日本語が教えられますよ。」

と言っているが、

…昔とった杵柄で役に立つのは「餅つき」だけ…。

いくら国語の先生とは言え、それは無理があるというものだ。

日本語学校は各国の学生が同じクラスで勉強している。だから教授法は英語、中国語などの媒介言語を使わず教える直接法をとっている。日本人は英語を日本語で教えたり学んだりした経験はあるが、日本語を日本語で教えた経験がない。そのため、事務長の八田のように例え英語の教師の免許を持っていても、日本語教師養成講座などで日本語教育を学ぶ必要がある。つまり田中校長や八田には日本語を教える資格があるわけではない。

それでも彼らは1週間に12度、代講の時、臨時に、など時々授業を受け持つ。残念ながら、その評判はすこぶる悪く、授業中に居眠りをしている学生も多いと聞く。当然といえば当然だ。

日本語教育を学んだことがない人が外国人に教えると、日本人に教える英語教育や国語教育と同じやり方になる。日本語がわからない学生が国語を理解できるわけがない。

田中校長は1週間に12度しか学校に来ない。だから実際にこの

学校を取り仕切っているのは事務長の八田だ。事務長といっても、実

は事務的な仕事が苦手で、どちらかというと口八丁の営業肌なため、

学生の募集を一手に引き受け、年に何度か韓国、中国に学生募集に出

かける。

「わしはほら、英語ができるでしょう。それでね、ずいぶん助か

っているんだよ。」

と自慢げに鼻を膨らませる。

…実際、中国や韓国でどのくらい英語力を活用しているのだろう

か…。

まわりの皆が疑っている。中国では日本語のうまい通訳を連れて歩い

ているし、韓国では学生を紹介してくれる仲介業者の韓国人がほとん

どみんな日本語を流暢に話すとなれば、英語力を駆使して活躍してい

る八田を想像するほうがむずかしい。

学生募集で海外に出張しないときはたいてい、事務室で暇つぶしに職員を相手におしゃべりをしたり、冗談をいったり、からかったりし

て遊んでいる。そんなときの話題は常に自分の自慢話が中心だ。

  「わしは大阪一の経済大学を卒業した。」(どこ?)

  「うちの猫はペルシャだから、人間よりえさ代がかかる。」

(いくら?)

  「うちの娘は宝塚に合格したが行かなかった。」(なぜ?)

八田は斉藤が嫌いだ。斉藤はどんな時でも、八田の自慢話に耳を貸さないからだ。斉藤も八田が嫌いだ。斉藤は実力以外の何者も信じないタイプだ。

…男は実力で勝負して来い!ってね。

   …斉藤はいつもわしを見透かしたような目でみやがる。これだ

から博多の女は好かん(嫌いだ)!

   …「好かん」でけっこう!あんたに好かれる必要なし!

 

  「うちの息子は本当にわがままだからいかんよ。ぺエペエの癖に

高い車を買おうとするもんだから、金が足りなくなって親父の

わしに金貸せっていう。」

  「へぇ、八田先生の息子さんならもう、40くらいになられるん

じゃないですかぁ。」

さっきも八田は佐伯相手に自慢話の最中だった。佐伯は八田にとって

は孫ぐらいの年齢だから、八田自身、結構佐伯を可愛がっているよう

だ。ただ佐伯の方はいつも陰では

「あのじいさん、いい加減くたばればいいのに!」

なんてひどいことを言っている。

  「いや、いやうちの息子はまだ39だよ。」

39歳は、つまりもうほぼ40歳ってことでしょうが!

斉藤は心の中でつぶやく。

「で、高級車ってなんですか。」

BMWでね。小さいころから何でもいいものばかり見せてきた

もんだから、趣味が高い、高い。今ごろ嘆いてもしかたないけ

どね。親ばかかね。ほっほっほっ…」

 八田はそこらじゅうにつばを飛ばしながら何がおかしいのかうれしそうに笑う。

「そりぁ、八田先生の趣味がいいから~っ。子は親の背中を見て

育つっていうじゃないですか。先生の今日の雨傘、バーバリで

しょう。わたしなんか300円傘ですよ。先生はこだわりがあり

すぎっ!」

佐伯がおべんちゃらを言う。八田は「うっふぉっふぉ」とまたうれし

そうに笑う。

…「子は親の背中を見て育つ」ってあなた、そんな時には使わん

でしょう!

斉藤が佐伯をにらむ。それにしても、人から何か褒められたら、(むろ

100%お世辞なのだが)、八田はもう、有頂天になる。

…豚もおだてりゃ木に登る。

斉藤は八田の方を見ずに、だまって机の上のメモ帳に八田豚が木に登

っていく姿をスケッチした。日本語の先生は常日頃から、学生にわかりやすく説明するために、言葉の意味を即座に図示する訓練をしている。

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2006年5月 6日 (土)

老鼠愛大米 NO.36

● プレゼント

 昼休み、直美が今日の試験の採点をしていると、大きな紙袋を抱えて、佐伯が職員室に入ってきた。そしてまっすぐ直美の横の席につくと、その紙袋を机の下に押し込むように入れる。

 「何?」

 「これ、見てください。」

佐伯が紙袋の中身を指差した。紙袋には白い菊の花が、4050本ほど束にして差し込んである。

 「斉藤主任をお気に入りの韓さんから、『今日は斉藤先生の誕生日だから、先生に渡してください』ってこれ預かったんです。」

 「はぁ???だって、それ菊じゃないの。しかも白ばかり。葬式みたーい。」

 「でしょう?私もどうしようかと思って、とりあえずこの紙袋の中に隠したんです。」

直美はチラッと斉藤の方を見た。

 「ちょっと、まずいっすよね。」

佐伯は本の陰に隠れるようにして、斉藤をちらちら見ながら困り果て

ている。

 学生たちは日本に来るときに、親から預かったさまざまなお土産を

気に入った、あるいは自分の事を気に入って欲しいと願う人に贈る。

直美の引き出しの中はそういった学生からの贈り物であふれている。

凝ったすかし模様が入った扇子、保証書付きの朝鮮人参。変わったと

ころでは鹿の角を薄く輪切りにして、魚の鱗のように並べたものだ。

何に使うか訊いてみると、大抵の学生は「知りません。使ったことが

ありません」と応える。

 …知らないものをなぜ贈る!

しかし高価なものではあるようだ。但し書きを翻訳してもらうとどう

やら強壮剤にも使うらしい。

 …今んところ、用なし!

そんな具合で、これらの贈答品は陽の目をみることなく、直美の引き

出しにお蔵入りしている。他の先生の机の引き出しもおそらくは似た

りよったりにちがいない。

 学生の先生への貢物の習慣は日本で暮らすようになってからも止ま

らない。家を借りるときに保証人になってもらう。入管へのビザ更新

の時に出席率をなんとかごまかしてよくしてもらいたい。進学のとき

の推薦状に「日本語能力」は「上」と書いてもらいたい。様々な思い

がその貢物にこめられている。今日の韓さんのプレゼントもやはりそ

れに類する物だろうが、

   …それが白い菊じゃーねぇ。

直美はため息をつきながら更に花束の脇に添えられた、ご祝儀袋に目を留めた。

 「待ってよ。これはまずいでしょう!」

 「えっ?何ですか。」

直美は袋の中から、結婚式のときに使うご祝儀袋をつまみ出した。袋は金銀の縁取りが施され、鶴と亀の絵が描かれている。

 「いくら何でも、先生にお金ってのはまずいんじゃないの。」

直美は斉藤の方を見ながら、小声で言う。

 「ああ、これですか。バカでしょう?こんなものに入れるなんて。」

佐伯が口元を押さえて「くっ、くっ」と笑う。

 「これ、お金が入ってるわけじゃないんですよ。わたしも韓さんに

  これ何?って訊いたんです。そしたら、『文房具屋に行ったら、きれいな封筒があったので、これに手紙を入れました』って。もう、ほんとに何をするか。『ご霊前』の袋じゃないだけましかと思って、このまま預かって来ました。」

 …白い菊の花束に『ご霊前』の袋だったら、喜ばせるどころか、韓さん、斉藤先生に一生恨まれるかも…。

直美は財布から5000円札を1枚抜き取って、佐伯に渡した。

 「これで、何か他の花に代えて来てよ。菊じゃないのに。おつり、ちゃんと持ってきてよ。」

 「でも、この菊どうします?」

 「それは、花屋に引き取ってもらうか、だめだったら後で私が持って帰るわ。」

佐伯は「はい、了解しました!」と小さく敬礼して、出て行った。し

ばらくするとまた大きな包みを後ろ手に隠しながらもどってきた。

 「先輩、これどうですか。」

見ると、カサブランカが袋の中からぱっくりと口を開けてこちらをみ

ている。何本もあるので、まるで鷲の雛が親鳥から餌をもらおうと、

一斉に口を開けて鳴きだしたみたいに見える。

 「あなた、何もこんな派手派手しいのに代えてこなくても…。」

 「だって、やっぱり白の方がいいでしょう。後で斉藤主任が韓さんにお礼を言うときのことを考えたら…。」

…そうだ。主任はきっと、「韓さん、白い花をありがとうね。」っ

て言うだろうな。

直美はカサブランカの花束に、結婚式用のご祝儀袋を添えた。違和感

があるにはあるが、なぜか妙にマッチしているのが面白かった。

 「斉藤主任、誕生日おめでとうございます。これ韓さんが。」

佐伯が斉藤に花束を渡すと、斉藤はにわかに明るい表情になって、

 「あら、あら。年をとるのはうれしくないけど、こんなプレゼントをもらうなんて!こっちの方は毎日でもうれしいわねぇ。」

ちょっとおどけて花束を抱え、カサブランカの花の香りをかいだ。

 …もう、いくつになったのだろうか。

斉藤はいつ見ても年を感じさせず、若々しい。

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2006年5月 5日 (金)

老鼠愛大米 NO.35

 二人は店を出て西へ歩く。さっきまで薄暗い喫茶店の中で話してい

たせいか、外へ出ると陽の光がやけにまぶしい。大通りを左に折れる

と、福岡高等裁判所の脇を通って、福岡城址のお壕端に出る。

お壕には蓮がその大きな葉を水一面に広げて、薄いピンクや黄色の蓮

の花が葉の隙間から、水面を滑るように可憐に咲いている。

 二人は並んで鴻矑館の跡地になっている高台へと歩いていった。こ

こは以前平和台野球場があったところで、西鉄ライオンズの黄金時代、

博多っ子の心を虜にしたところだ。今は鴻矑館後に記念館が建てられ、

毎年4月には桜の名所として大いににぎわう。

 二人は、そこから家並みが見えるところまで登ってきた。

「劉君、あそこに座ろうか。」

「はい。」

劉は、またもとの寡黙な劉に戻っていた。二人は木の下のベンチに

腰をかけた。生ぬるい6月の風が木々の葉の息吹を運んでは過ぎて

いく。

「先生。僕、李麗麗に聞いて見ます。先生はこれ以上僕たちのこ

 とにかかわらなくていいです。

  「劉君。この前、入管の人が来た後も同じ事を言ったよね。それ

ってこの前話した中国人とか日本人とかに関係あるの。」

   「関係ないです。僕は先生が僕たちのことでつらい思いをしたり、悲しい事件に巻き込まれたりするのがいやなんだ。」 

  「そう。」

  …今、劉は私を教師として見て話しているのか。それとも告白なのだろうか。劉は私が好きだと言っているのだろうか。

  …先生に『好きだ』と言いたい。でも言った後に先生が俺を拒絶したらどうなる?俺は先生とこんな風に話すことさえできなく

なる。

  「先生、好きな人がいますか?」

劉が話題を少しずらしてきた。直美はほっとしながらその話題に乗る。

  「そうね。昔いたのよ。その人となら結婚してもいい、と思える人が。大学の時代にね。」

  「どうして結婚しなかったんですか。」

  「振られたの。卒業する時に。もっと勉強したいから、もっと自分を育てたいから、って言われた。結婚して束縛されたくないって。」

  「僕は結婚したからって束縛されるとは思わないけど。」

  「そうね。わたしもそう思う。人を愛するときに、自分の大切にしているものを犠牲にしなくちゃならないような愛なら、それは本当の愛じゃない。わたしも彼にそう言ったのよ。」

  「そしたら?」

劉は直美をじっと見た。思いの他近くに劉の顔があった。長いまつげ

の奥の瞳に直美が映っているように見えた。

  「君は女だからっそう思うんだよ、って言われた。」

  「どういう意味ですか?」

  「女は結婚して、家庭に入り、子どもを生んで育てる。そのことだけでも喜びを感じることができるけれど、男はそうはいかない、って言ったの。」

直美はそういいながら町並みの向こうに見える海を見つめた。劉も直美と並んで海を見る。

「先生、それは男とか女とかに関係ないと思います。人は愛す

 るために生きているんだと僕は思う。人は人を愛しているか

ら、学び、励み、また愛し合うんだ。」

  「劉君は優しいのね。」

直美はくすっと笑った。

  「何でですか。」

  「だって、失恋したわたしを一生懸命かばってくれるから。」

劉もまた笑う。

  「そうじゃないけど。でも、僕が先生に愛してるって言われたら

   今すぐにでも結婚するかもしれません。」

  「えっ!ほんと?」

  「ほんとです。僕、もうこれ以上成長するものがないから…。」

直美は劉にさらっと愛を告白されて、目をパチパチさせてしまった。

  「バカね。劉君は若いんだから、まだいっぱい成長するものが

   あるのよ。でも劉君が成長するまで待ってたら、わたしはおば

あさんになってるかもしれないわね。うーん、困ったなぁ。」

あわててそういいながら、くしゃみをした。

  「寒いですか。」

  「ちょっとね。今日はもう帰ろうか。」

 劉は立ち上がると、ジャケットを脱いで直美の肩にかけた。

それからそっと後ろから肩に手をまわして、直美を自分の体で包み込

むようにして歩いた。

…男の人にこんなに暖かく抱かれたのは何年ぶりかなぁ。今どうしているだろう…。

久しぶりに大学時代の彼を思った。

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2006年5月 4日 (木)

老鼠愛大米NO.34

● 獏(バク)

 「李さん!」

 直美は授業が終わって前を歩く李麗麗の肩をポンと軽くたいた。こ

のところあんまり元気がない李を元気付ける意味もあった。

 「ひぇっ!」

麗麗は妙な悲鳴を上げてのけぞる。

 「どうしたの。」

 「いえ」

 「肩、けがしてるの?見せてごらん!」

直美は麗麗を廊下の端に寄せて、Tシャツの襟から背中を覗き込んだ。

麗麗の肩から背中にかけて、赤黒いあざがいくつも見えた。

 「何?これ! どうしたの。」

 「いえ、大丈夫です。」

 「大丈夫じゃないよ。ちょっとこっちへ来なさい。」

直美が麗麗の手をひっぱろうとすると、麗麗は痛そうに体をよじった。

あわてて手を離すと、

 「先生、大丈夫だから…。」

目にうっすら涙を浮かべて逃げるようにして、帰って行った。

…どうしたんだろう。

麗麗はこのところ変だ。日帰り旅行の事件以来、授業中ボーっとしていることが多くなり、時には元気なく下ばかり見ていたりする。

 …あの傷…。どこで?まさか劉が…。そんなはずはない。

阿蘇の火口で劉が麗麗を後ろから抱きすくめた姿がまたも脳裏に蘇る。胸の奥がズキンと痛んだ。

親不孝通りのはずれに「獏(バク)」という喫茶店がある。狭い急な階段を上ると左手に木製の引き戸がある。そこを開くと、右手が「獏」、左手に小さな小さな「画廊」がある。福岡近辺の美大生や芸術家たちが気軽に個展を開けるようにと、喫茶店のオーナーが格安で部屋を提供しているのだ。この喫茶店の歴史は古い。親不孝どおりに浪人生があふれる昭和40年代後半にオープンしてから、この通りをずっと見つめてきた店の一つだ。中は薄暗い照明になっていて、中央にマストのような大きな柱、その周りに古い木製の椅子やベンチが並べられており、壁には皮製のこれまた古い航海図、全体が船倉のようなつくりだ。部屋の隅には、海賊(パイアレイツ)の戦利品が入っているのか、鎖がまかれた大きな木箱があった。

「獏」は夢を喰う動物だ。ここにいると、獏の腹の中にいるようだ。この腹には獏に喰われた夢がたくさんつまっている。

 直美と劉は部屋の隅の席に座っている。この店のママがコーヒーを二つ持ってきた。年は50を少し越えたぐらいだろう。ここに来る常連はほとんどがこの知的で美しいママを目当てに通ってくる。直美はこの店によく来ているのでママとは顔見知りだ。しかし、今日のママは事情を察してでもいるかのように、直美の顔を見るでもなく、コーヒーをおくと、さっとカウンターの方へ戻っていった。

 

こうやって学校の外で劉と向き合うと、以前と比べてずいぶん大人びてきたと改めて思う。ジーパンに短めのジャケットという何でもない格好だが、すらっとした体躯が若さを匂わせる。あごが細く、切れ長の眼、長いまつ毛が目元に影を作っている。

 「劉君、今日は聞きたいことがあってこんなところに呼んだの。」

 「はい。」

 劉はいつもそうだ。直美が話しかけると、短く返事をするだけで、後は会話が途切れてしまう。劉の担任の斉藤はよく劉をほめる。劉のように、無駄なく論理的にしかも流れるように日本語を話せる学生はそういないと。しかし、直美はそんな劉の日本語を一度も聞いたことがない。

 「あのね、李麗麗さんのことなんだけど…。」

 「はい。」

 

麗麗の名前を出しても、劉は顔色を変えない。直美はちょっとひ

るんだ。劉が自分から麗麗のことを話してくれたら、どんなに楽だろう。「つきあっている」とか「好きなんです」とか。もちろんそう言われたら言われたで、今度は自分の方が、ショックをうけることも確かなのだが。

 「このごろ少し様子が変だと思うんだけど、何か知ってる。」

 「知ってるって?」

劉は、シュガーポットから砂糖を一匙すくってから、コーヒーカップに入れると、そのスプーンでクルクルと混ぜる。飲むためというより、ただ無意識にまわしているだけのように見える。

  …そう言えば、今まで中国の学生でコーヒーを好んで飲む人はほとんどいなかった。別のものを注文してやれば良かった。

 「李さん最近、ボーっとしているかと思ったら、突然下を向いたま

まで、泣いているように見えたり。劉君、何か知っているかな、

と思って。」

 「先生、なんで僕が李さんのことを知っているって思うんですか。」 

劉が突然聞く。

…もう、はっきり訊いた方がいい。

直美はコーヒーカップに目を落としたままでつぶやくように言う。

 「劉君と李さんはつきあっているの?」

 「僕たちはつきあっていません。」

 劉はさっきまでまわしていた匙をカップの脇に置くと、はっきりと

言う。

 「先生、僕は一度だけ李麗麗を抱きました。」

 「えっ!」

 直美は予想していたことだけれど、改めてそう言われるとガーンと

頭をたたかれた気分になった。

 「いつ?」

 そう聞いてから、…しまった…と思った。

…なんでこんなつまらんことを聞くんだ!こんなときに…。

直美は明らかに動揺している。いかん、いかんと心の中でつぶやきながら、自分の中から湧き上がってくるどうしようもない虚脱感のようなものを隠すすべがない。

 「李が、2月に口紅を万引きして、田隈さんに助けてもらった日です。その日、田隈さんは李を連れて、僕がアルバイトをしていた

ホテルに来ました。」

劉はその後、李に起こったことを堰を切ったように話し始めた。直美

は聞きながら話の内容のすごさもさることながら、劉の流暢な日本語

の方にむしろ驚きと感動を覚えてしまった。これが、斉藤先生が言っ

てた「劉の日本語」だったんだ。

 「先生!」

 ボーっと聞きほれていた直美の耳に劉の声が突然響く。今度はまっ

すぐ直美の方を見ている。

 「僕はあの事件の次の日、李に言いました。二人が抱き合ったとき僕はとっても惨めな気持ちになった。抱きしめれば、抱きしめるほど悲しさがこみ上げてきた。そんなの恋とか愛とかとは違うと思うって。そしたら、李が言ったんです。それなら田隈さんとおんなじだって。私を自分の欲望のために利用しただけだって。いや同類じゃない、もっと悪いと言ったんだ。」

 「もっと、悪い?」

 「そう。田隈さんは李に謝った。そして李が盗んだ口紅を買ってやたんだ。」

 「つまり、今李さんがつき合っている相手は田隈さんってことなの?」

 「そうじゃないかなぁ…。皆のうわさだけど。」

 「わたしね、この間李さんの体中に、あざがたくさんあるのを見たのよ。」

 「なんですか?」

 「あざよ。何かにぶつかったり、誰かにたたかれたりしたら、体に

  赤黒い跡が残るでしょう。あれよ。そのあざがたくさんあったのよ。李さんの体中の傷は田隈さんがなぐった跡なのかしら?」

 「たぶん、しかもわざと見えないところを殴ったんだ。他の人に気づかれないように。あいつはそれぐらい平気でするやつなんだ。あの後、僕がつとめているホテルに電話をしてきて、『おまえのホテルは客に声をかける従業員がいるんだなぁ。やめさせないと、客が減ることになるぞ』って。」

 「そんなこと!ひどいじゃないの!」

 「仕方ないです。どんなに抵抗しても、やっぱり客に声をかけた僕の方が悪いから。」

 直美は田隈の人形のようなポチャポチャした顔を思い浮かべて悔し

さに目を潤ませた。

 コーヒーはもうとっくに冷めてしまっている。いつもなら店のママ

がティーポットを片手に「もう一杯いかがですか」とさりげなくつい

でくれるのだが、今日はカウンターから出てこない。二人の会話をか

き消すように、いつもより大声で常連客と冗談を交わしている。

…ママは私たちに気を使ってくれている。

 直美は「獏」の人気の原点はここにあったのだなと思う。店内は

昼のランチ客で少しずつ込み始めていた。

「出ようか。」

 直美は勘定書きを握ってさっと席を立つ。劉もつられて、席を立っ

た。

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老鼠愛大米NO.33

「劉君。

振り向くと直美がもう服を着て立っていた。劉は目を伏せたまま直美を見ようとしない。

  「何だかサスペンスドラマみたいだったね。」

くすっと直美が笑う。自分でも大胆なことをしたもんだと思う。

  …酔ってたからね…。

  「先生、すみませんでした。」

  「あら、大丈夫よ。なんともないわよ。」

  「大丈夫じゃないです。」

  「そう?どうして?」

直美はわざとおどけて見せた。劉があまり真剣な顔をするからだ。

  「僕は何かある度に先生を巻き添えにしている。」

  「それはしかたがないでしょう。わたしは日本語学校の教師だも

の。」

  「いや、先生は日本語だけを教えていればいいんんだ。僕たちのことにかかわらないでほしい。」

「僕たちのこと」、言われてあっと思う。

  …そうか。僕たちのことなんだ。やっぱり劉は中国人。わたしは日本人のなのか。

  「じゃ、劉君はわたしと劉君は違うと思っているわけ?」

  「はい、違います。先生は日本人。僕は中国人。中国と日本はとっても近い。近いけれど僕たちの間には深い深い海がある。そう簡単には渡れないんだ。」

  …そうか。

直美はひどく寂しかった。それでも劉に反対する言葉があるわけでは

ない。

  …でも、渡りたいんだ。どうしても。

劉は思う。でも今の劉にはそんなことを言えるほどの力も自信もない。

  「先生、送って行きます。」

  「ううん。大丈夫。明るくなってきたからね。もう一人で帰れるよ。さよなら…」

直美はスニーカーをつっかけたままあわてて劉のアパートを飛び出し

た。

  …結論が出ないうちに。結論を言わないうちに。早くここを離れたい。

もう少しこのまま劉とモヤモヤとつながっていたい、そう思った。

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2006年5月 1日 (月)

老鼠愛大米NO.32

ドアを開けるとすぐに台所、奥は6畳ほどの和室だ。和室にはいつも片付けないのか布団が敷きっぱなしになっている。和室の向こうは

小さなベランダ。洗濯物が干せるスペースがある。

 部屋に入ると、劉がお湯を沸かして、直美にお茶を入れてくれた。

三人とも黙ってお茶を飲んだ。

  「鄭さん、もう国へ帰ったらいいのに。」

直美が言う。鄭は黙ってうなずく。

  …といっても、帰るお金もないのかもしれない…。

その時アパートの外で車の止まる音がした。

劉がさっと立って、財布からあるだけの札を抜いて鄭に渡す。

直美も自分の財布から2万円抜いて、鄭に渡そうとする。

  「ダメです。」

劉が鄭と直美の間に立ちふさがり、直美の手をつかんだ。

  「いいのよ。大丈夫。」

直美が無理やり鄭にお金を渡そうとして劉ともみ合いになる。

その間にも鄭は玄関から靴を持ってきて、部屋であわててはき始めた。

それから土足のまま和室に転がり込む。直美も鄭を追って和室に入ると、後ろ手にふすまをしめた。それから握り締めていた金を鄭に渡した。鄭は「すみません」とでも言うように頭をさげ、ベランダへ出た。

  「ピンポーン」

玄関の呼び鈴が鳴る。鄭はベランダから一気に下へ飛び降りた。

  「ウグーッ」

アパートの下で、鄭のうなり声が聞こえる。直美はあわてて窓ところまで走ると下を見た。

  …大丈夫なの?

アパートの下から黒い影がピョコン、ピョコンしながら、路地の方へ消えていった。

  「ピンポーン、ピンポーン」

ドアの呼び鈴が鳴る。

  「はーい。」

劉はできるだけゆっくり返事をしながら、ドアに近づいた。

  「すみません。ちょっといいですか。」

  「どなたですか。」

  「・・・・・・。」

相手はわざと答えない。

ゆっくりとドアを半開きにする。急にグイッと外側からドアを引っ張られ、劉はあやうくバランスを崩しそうになる。

「入国管理局のものだけど、鄭基峰さん、知ってるでしょ。」

背広を着た中年の男二人が玄関に立っている。

  「鄭さん、ここに来てないかなぁ。探しているんだけど。」

もう一人が後ろから盛んに部屋の中を覗き込みながら訊く。すぐに劉のではないスニーカーを発見した。直美のものだ。

  …まずいっ。

劉はさっと顔色を変えた。

  …また先生を巻き込んでしまう。

  「ちょっと失礼。入りますよ。」

劉が顔色を変えたのを見た二人の捜査官は鄭が部屋にいるのを確信したかのように、ずかずかと部屋に上がりこんできた。

劉は和室と二人の捜査官の間に仁王立ちの形になった。

  「何するんですか。勝手に入らないでください。」

  「あんた、かばったりすると、あんたも捕まるよ。」

小さい方の男が劉の手を押さえる。振りほどこうとしたが、体が小さくせに腕力は相当強い。

  男ともみ合っているうちに、もう一人の男がさっとふすまを開けた。

  「あっ!」

台所の明かりが奥の和室に射し込んだ。その光がまるでスポットライトのように壁によりかって座っている直美を照らしている。

 直美は毛布を胸の辺りまで持ち上げているが、肩はむき出しになったまま。毛布の下は裸なのだ。だれが見てもわかる。

  三人の男はポカンと口をあけて直美を見つめた。さっきふすまを思い切り開けた男がばつの悪そうな顔で、

  「これりぁー失礼…。」

といいながらふすまを閉めた。それから劉の方を振り向くと

  「あんた、最初からそう言ってくれたらいいのにぃ。」

ニヤニヤ笑う。

  …お前らが勝手に入ってきたんだろうが!

  「とにかく鄭基峰がこちらに寄るようなことがあったら必ず

   ここに知らせてください。」

  「どうも、お楽しみのところをお邪魔しました。」

二人の男はテーブルに名刺を置くと、にやけたままの顔でドアを閉めた。

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