« 2006年3月 | トップページ | 2006年5月 »

2006年4月30日 (日)

老鼠愛大米 NO.31

● 不法滞在

 川に沿って南へ下る。福岡市は北が海だ。川は二人の歩く方向とは逆向きに流れている。

 「先生、先生は中国人を愛せますか?」

劉が訊く。

 「うん?中国人?」

直美は心の中を覗き込まれたような気がした。

 「わたしは人を愛するときに、何々人だから、なんて考えたことは

  ないけど…。劉君はどうなの?劉君は日本人を愛せる?」

  …酔ってるんだ、こんな話題に乗るなんて。

 「どうかわかりません。もし僕に日本人の恋人ができたら、きっと結婚したいって思うでしょう。僕は中国人だ。いつかは中国に帰る。僕の日本の恋人は僕についてきてくれるでしょうか。」

  …先生、僕といっしょに中国に行ってくれますか?

そう訊きたかった。しかしそんなこと訊けるはずもない。

  …中国に?考えたこともなかった。わたしが劉と中国に行く?で

きるだろうか?

劉は直美の返事を待たずに続ける。

  「きっと彼女は日本にいたいと思うでしょう。普通恋人と別れる

ときは相手が嫌いになったときでしょう。嫌いになったり、嫌われたりした後なら、別れても納得できる。でも僕が日本人を愛したら、好きなまま別れなければならないときが来るかもしれません。だから…。」

  …先生を好きになったらいけないんだ。

心の中でそう思う。胸が裂けそうに痛い。

  …劉は日本人じゃないのだ。いつかは国へ帰る人なのだ。わたし

は中国人の劉を愛せるだろうか。

Yes」とも「No」ともはっきり頭に浮かぶ答えはない。今まで考えても見なかったことだった。

 いつの間にか劉のアパートの前まで来た。アパートの前の自転車置き場に自転車を置き、直美と劉が帰ろうとしたとき、黒い影がぬっと二人の前に現れた。

 「えっ?鄭さんじゃないの?鄭さんでしょ。」

直美が驚いて訊く。鄭は3月のビザ更新の時、過去1年間の日本語学校での出席日数が大幅に足りなかった。鄭は学校を休んでアルバイトばかりしていた。だからビザ更新ができなかったのだ。更新ができなければ、帰国しなければならない。あれからもう3ヶ月。とっくに帰国していなければおかしい。

 「劉君、あなた知ってたの?」

 「いえ。」

 …知っていたにちがいない。知らないはずはなかった。

鄭は直美を無視して劉に話しかける。

 「金がいる。金を貸してくれ。」

  「いくら?」

  「5万円くらいあればいい。」

  「今もってないから、銀行でおろす。明日来い。」

  「明日じゃ間に合わん。今入管に追われている。ここにも

   来るかもしれん。」

  「しかしないものはない。」

  「あれ、坂本先生だろ。先生に借りよう。」

  「いやだ。そんなことできるか。」

二人は中国語で話している。それでも毎日中国人と接していれば、大体どんなことを話しているか、雰囲気で分かる。

  「ちょっと、こんなところで、話していてもなんだし、とりあえ

ず部屋に入ったらどうなの?」

劉の部屋は2階にある。三人は鉄の階段をできるだけ音を立てないように登って、劉の部屋に滑り込んだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

老鼠愛大米NO.30

今日は相当に飲んだ。直美は少し休んでから帰ろうかと思い、西大

橋の欄干にもたれた。橋の袂には鉄でできた風車が数本たっている。

風車が回ると、かすかに海の香りがする潮風がやさしく頬をなでる。

 「先生と学生の関係、あなた考えない?」、さっきの斉藤の声が、頭

の奥で何度もぐるぐる回る。

 …そうだよねぇ。学生と先生…。無理がある…。

 

突然後ろから肩をたたかれた。ドキッとするより先に「しまった!」と思う。いくら街中とはいってもこんな時間に女一人で歩くのは危ないに決まっている。

  「先生!」

劉だった。

  「あっ、劉君、何してるの?こんなとろこで。」

  「先生こそ、何してるんですか。こんな時間に危ないと思うけど。」

  「うん、そうだね。今から帰るところなの。」

  「先生、酒、飲んだでしょう。」

  「わかる?」

確かに酒のせいだ。あれ以来、劉とも李麗麗ともしっくりいかない感

じだった。学校であっても、授業以外では以前ほど二人と話さな

くなった。でも、今は昔の劉と自分に戻って普通に話ができる。

 「先生、僕のアパート、あの橋の向こうなんです。ちょっと寄って

いきませんか?」

 「えーっ!こんな時間にぃ~? 無理!」

  …ほんとは無理なことないんだけど…。

 「だって、先生、すごく酔ってるみたいだから、アパートにこの

  自転車置いてから先生を送って行きます。」

劉は左手で抑えている自転車の方をあごでしゃくった。

 「大丈夫よ、そんな。一人で帰れるから。」

 「いや、大丈夫じゃない。」

そういいながら、劉が直美の腕をつかむ。

  …あの時と同じだね。阿蘇へ行った日と。「先生、麗麗がいない」

ってあなたが叫んで、わたしの腕をひっぱった。

   そうね、あそこからもう一度やり直してみるか…。

「わたしは酔っている」直美はそう思った。酔っていることにしたら、少しは自分がしていること、しようとしていることに寛大になれそうだ。「先生と学生の関係、考えてる?」斉藤の声がまた頭の奥で聞こえた。

| | コメント (0)

2006年4月29日 (土)

老鼠愛大米 NO.29

斉藤と直美は特に仲がいいというわけではない。ただこうやって月に1~2度外で飲むことで、お互いにメリットがある。斉藤は直美を含めた若い教師たちの考え方や動向、斉藤の采配に対する、満足度、不満度を直美の話から探り、直美の方は斉藤を含めた上司、学校の考え方を知ることができる。お互いに保険をかけあっているようなものだ。

 直美の教師としての能力は高い。他の教師のように毎日しっかりと準備して、いつも辞書を片手に勉強しているタイプではないが、直美が教えると、初めは何も話せない学生が3ヶ月もたたないうちに、生まれたてのひよこのように「ピヨピヨ、ピヨピヨ」うるさい程に日本語を使い始める。

 斉藤は一度直美の授業を見に行ったことがある。直美のクラスから歌声が聞こえてきた。

  「ちょっとストップ!イントロを良く聞いて!いいっ!…

1.2.3.はいっ!」

曲は「昴」。直美は歌い出しのところを何度も注意している。

  「ほら、何でも最初が大事ですよ。お腹の中に言葉が生まれる、

それから、胸を通って、のどをとおって、口から声が出るのが

   わかる? この言葉が私の口からあなたへ届きますように…。

そんな風に歌います。」

  「斉藤主任、坂本先生の授業、なんとかしてください。よく

   歌なんか教えて。遊んでるみたいなんですけど。私たちはこん

なにまじめにやってるのにぃ~。」

他の教師がよく文句を言ってくる。

 しかし、斉藤にはわかる。直美は遊んでいるのではない。まずは発声練習からやっているのだ。こうすれば、あっという間にひよこになり、いつの間にか雄鶏になって、「コケコッコーッ」と鳴き出すはずだ。

 

  「先生は学生に『好きです』って告白されたことありますか?」

直美が生ビールのお代わりを注文しながら訊く。今日はなぜか飲むペースがやたらに速い。 

  「そりゃぁ、日本語教師が長けりゃぁ、一人や二人いないことは

   ないけど…。」

  「で、やっぱりMake Love、するわけですかぁ?」

  … Make Love? つまり、「愛し合ったことがあるか」ってこ

とか。

「愛し合う」なんて言葉を使うと妙に生々しく不潔なイメージがあるからか、直美はわざと英語を使って、さらりと確信に触れたいらしい。

  「そうはいかないでしょう。心が動かないわけじゃぁないわよ。

   だけど相手が学生じゃねぇ。年が違いすぎるわね。それにそん

なことが他の人に知れたら、今まで築いてきた私の人生どうな

るの?ってことでしょう。」

  「そうですよねぇ、主任の場合は。」

  「あら、私だけじゃないわよ。あなただってまだ若いけど、『先生

と学生の関係』、考えない?」

  …そうなんだよなぁ…。

直美はまた劉のことを思う。

  …先生と学生…。もう、先生なんてやめようか…。

  「坂本さん、あなた『先生』ってどんな意味か考えたことある?」

斉藤がこの店の名物料理「博多地鶏のから揚げ」を器用につまみなが

ら言う。この料理は鶏の手羽中をから揚げして酢醤油に漬けたものだ。

酢のおかげで脂っこさがなく、何本も食べられる。 

  「私、この仕事を始めるときに、『先生ってどんな意味なのかなぁ』って考えたことがあるの。『先生』という字は『先に生きる』って書くでしょう。つまり私より先に生きている人は、みんな私の先生なんだ。私が知らないことを経験して、私が知らない何かをもっているだって。」 

  「そうですねぇ。言われて見れば…。」

  「それからついでに『学生』という言葉についても考えたの。『学生』は『生きる事を学ぶ』という意味。『私が先生になるんだったら、私は私の生き方を学生に教えるんじゃないのかなぁ』

   そんな風に思ったら、結構身が引き締まる思いをしたことがあるの。」

  「へぇ~…。考えても見ませんでしたぁ。」

直美は飲みかけのジョッキーを手に持ったままポカーンと口をあけて

感心している。

  「主任はやっぱりちがいますよねぇ。」

  「バカねぇ。私ぐらいの年になると、だれでももっともらしいことが言えるようになるのよ。」

  「そんなことないですよ。第一、主任はとーっても若いですからぁ。」

  「ありがとう。」

意外に素直に認める。

  「でもね、人は自分が『もう年なんだ』って思ったとき初めて年をとるのよ。もう少し若いころは『年じゃないんですかぁ』とか言われたら、何だかムカッとしてたけど、最近は『そうなんだ、年なんだ』って認められるもの。」

  …そうだ。

直美は思う。直美はまだ30だ。それでもこの前スーパーで買い物を

していたら、3~4才ぐらいの女の子に

  「おばちゃん、その棚の牛乳、とってくれない?」

といわれた。どうやら上の方の棚にある牛乳に手が届かないらしい。

  「わかった。だけどね。わたしのこと『お姉ちゃん』っていいなさい。そしたらとってあげるよ。」

  「ええーっ!だって、おばちゃんでしょう?」

女の子は体をくねくねさせながら笑う。それが妙に色っぽいのだ。

  「何がおかしいの、まったく!どんなしつけをしているのかしら。

   親の顔がみたいわっ!」

  「あの、わたしが親ですけど。」

後ろで若い声がする。直美がぎょっとして振り返るとまだ20歳にも

ならないようなママが直美をにらんでいた。

  …わたしは、まだ若い。認めるもんか。おばちゃんなんて。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月28日 (金)

老鼠愛大米 NO.28

      居酒屋

 「いらっしゃーい。何にしましょ!」

店のおやじさんが、斉藤におしぼりを渡しながら訊く。

 「あっ、後からもう一人来るからとりあえずビールね。」

 「へ~~ぃ。」

おじさんは威勢良く返事すると奥へひっこんだ。

この居酒屋「よらんね」は斉藤が直美とよく利用する場所だ。月に1~2度来て、学校の話や人の噂話などをする。

 日本語学校というところは普通の学校とは違う。また、普通の会社とも違う。「何が普通か?」と訊かれたらはっきり違いを言えるわけではないが、斉藤の夫が勤めていた会社のように大学出を雇用し、若いうちから会社の方針、仕事のやり方を叩き込んでいるようなところとは違って、年齢も経験もばらばらの人間が寄り集まって一つの共同体を作っている。そのため、特に人間関係の面で様々なトラブルが起きやすい。

 日本語学校は中国(圧倒的に多いのだが)、韓国、インド、バングラデシュなどの東南アジアに加えて、アメリカ、ヨーロッパなどいろんな国の学生が混じっている。多国籍なので、文化や思考が異なるのは仕方がないことだが、日本語学校の場合、日本語の教師もまた、日本人なのにどうしてこう違うの?と首を傾げたくなるほど、ものの考え方や行動パターンが多国籍だ。だから、主任たちは坂本のような中堅どころから、いろんな情報を引き出して学校運営に役立てるのだ。

今日はあの阿蘇事件以来久しぶりに居酒屋「よらんね」での会合だ。

 斉藤は「ちらっ」とカウンターの一番奥の席を見た。その席はいつ行っても、空いている。店はそんなに広くなくカウンターとテーブル席をあわせても1213人ほどしか座れない。7時~8時には客がほぼつまってしまう。そんなときも奥の席だけ空いているので、待っている客が

「あの席空いていますか?」

と訊く。

おやじさんはその度に

 「すみませんねぇ。あいにく予約席やもんで。」

と断る。

 しかし、9時になっても11時になってもやっぱりその席にはだれも座らないのだ。

 斉藤の隣りに座った二人組みは常連客らしい。

 「おやじさんも、頑固やけんね。福田さんが、あっちへ行ってからもう3年になろうが…。」

  「もう、3年になるったいねぇ。」

  「あのーっ、すみません。」

斉藤はつい声をかけてしまった。好奇心が沸くとどうしてもとまらない。

  「ふくださんって、あの席を予約している人ですか?」

  「いや、予約しとっちゃなかと。おやじさんが勝手に席ばとっとーと。(とっているんだ)」

  「なんでですか。」

斉藤の質問に、もう一人の男が向こうから乗り出して答える。

  「ホラ、あそこに写真が飾っちゃろーが、あれは福田さんが

   撮んしゃったそうやけど。」

カウンターの後ろに、森の中で銃を構えた兵士の写真とその横に、ぼ

ろぼろの服を着て、髪はボサボサなのに歯だけが妙に白い5~6才の

子どもがこちらを見て笑っている写真がセピア色になりかけて貼って

あった。

  「ラオスかカンボジアか知らんばってん、なんかそこらあたりに写真ば撮りに行きんしゃってくさ、わからんごとなっとんしゃーと。(いなくなってしまった)」

  「あの角で、よー酒ば飲みよんしゃったもんねー。」

  「そげんたいねぇ。(そうだよねぇ。)おやじさんも、福ちゃん、福ちゃんてかわいがっくさー。」

二人はもう斉藤のことは忘れたみたいに昔話にひたりながら寂しそう

だ。

 いつの間にか、カウンターのところに戻ってきたおやじさんが、め

だたないように手の甲で涙をぬぐっている。

 「ガラーッ」客が入ってきた。

  「いらっしゃいっ!」

おやじさんが急に晴れやかな声を上げる。

  「あーっ、こっちこっち。」

直美だった。

  「すみませーん。遅くなってぇー。」

直美の優しい声がカランコロンと響く。

おやじさんも常連客もなんだかほっとした顔にもどった

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月24日 (月)

老鼠愛大米 NO.27

      代講

「いたっ…。」

ベッドに寝たまま時間をみようとして、時計に手を伸ばしたとたん、ズキンと痛みが走った。

  …そうだった。けがしてたんだ。

直美の両手はまるでミイラのように包帯でぐるぐる巻きになっている。

  …なんであの時、こんなになるまで必死で山を登ったのか?

わたしは本当に李麗麗を探しに火口までもどったのだろうか。

劉が前を行く。劉に遅れまいとして坂を駆け上がる。

  「先生、早くっ!」

直美と劉は束縛から解き放たれた鳥のように、もう一度束縛されるのを嫌がるかのように、必死で走った。

…麗麗を追いかけたのではない。逃げていたんだ。わたしは劉と

 手を取り合ってどこまでも逃げていたかった。

あのまま手をつないで、燃え上がる火口に飛び込んでいたとし

ても、劉といっしょならちっとも怖くなかったろう。

また、ズキン、ズキンと手が痛い。じっとしていると、その痛みは手から来ているのではないのだとわかる。もっと奥の体の芯から、ズキ

ン、ズキンと響いている。

  …劉と麗麗はやっぱり恋人同士なのだ。

わたし、いい年して、みっともないよなーっ…。

そう思う。そう思うが、心のどこかであきらめきれない思いがある。この年になったからこそかえって劉を愛せるのかもしれない。

 直美は学校を休むことにした。

  …このぐるぐる巻きの包帯が取れてからでなければ、恥ずかしく

て行けない。

  …のぼせ過ぎ…、と思われたくない。

少なくとも劉だけには。

  …みっともなさ過ぎる!

  坂本先生は学校を休んでいる。その代講として事務長の八田が劉たちのクラスを教えることになった。もと英語の先生だったせいか、英語を乱用するため、どこからが日本語で、どこからが英語なのか、それは本当に英語なのか、それともJapanese Englishなのかわからない。

  「ええ、日本のサラリーマンは結構ハードなジョブのわりに給料がチープなのでつらいよね。その点ショップのオーナーなんかになれば、自分のマネーはフリーに使えるからハッピイだけど…。」

ちんぷんかんぷんで学生はみんなポカーンとして聞いている。日本語

のようなそうでないような珍しい言葉に聞き入っているようにもみえ

る。

今は「~だらけ」と「~まみれ」はどう違うか質問されて、

  「そうだよねぇ、『~だらけ』はスポット、『~まみれは』は

   カバーって感じかな。まー、アバウトなところもあるんで、

   そんなにクリアーにいえるかどうかわからんがね。」

またまた、不思議な講釈をしている最中だ。

 劉は窓の外を見た。

  …坂本先生の手は傷だらけ…。坂本先生の手は血まみれ…。

   俺のせいだ。俺があの時誘わなければ良かったのに。

みんなで火口から駐車場まで降りた。先生は後から行く劉を一度も

振り返らなかった。

  …声をかけたかった。できれば先生を抱えて、山を駆け下りたか

った。

しかしあの時直美の横には佐伯がぴったりくっついて離れなかった。おまけにギャーギャー騒いで、どっちがけがしたのかわからないほどの興奮振りだった。。

 

麗麗も八田の授業を聞いていなかった。

   …あの時、みんなで山を降りた。坂本先生と佐伯先生が前を

    歩いていた。わたしと劉が後ろを歩いた。  

麗麗は劉の手をそっと握った。劉は嫌がらなかった。というより気がつかなかったのだ。劉は前を見ていた。その時初めて気が付いた。

   …坂本先生のことを心配しているんだ。

火の中へ飛び込んで人を助け出す消防士のように、劉はわた

しを助けてくれた。でも本当に助けたかったのはわたしじゃ

なかった。わたしを助けるために先生をけがさせた。そのこ

とをすごく後悔しているのだ。

劉が突然握っている麗麗の手をぎゅーっと握り締めた。

  「いたーぁい!」

麗麗が悲鳴をあげる。

  「あっ、ごめん。」

その時初めて麗麗と手を握っていたことにきがついたのか、劉がさっと麗麗の手を離した。

  …もう、劉と手をつなぐことなんて、決してない…。

麗麗は窓の外を見つめたまま、ぼんやりしている劉を見てそう思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月23日 (日)

老鼠愛大米 NO.26

阿蘇の火口は圧巻だ。地の底から湧き上がる赤い溶岩は盛り上がり、

沈み込み、一時も静まることがない。

地球という固体はなんと不思議だろう。人はこの固体の表面の薄い

薄い皮のようなところで生活している。愛し合い、争い、生産し、破

壊する。そんな人間の営みも、この固体の奥深くうずまくマントルがひと度地表に噴き出せば、ひとたまりもなく「無」と化してしまう。

 阿蘇の雄大さに感動し、溶岩のすごさに恐れをなし、みんな少々疲れ気味でバスにもどった。

 直美もバスに乗り込もうとしたとき、劉が腕をつかんだ。

 「先生、李麗麗がいません。」

 「えっ?」

 「李麗麗が…。さっき、みんなが山を降りるとき、まだ火口近くに

  いるようだったけど…。」

 「そう、行ってみましょうか。」

バスの駐車場から火口まで急いで歩いても10分はかかる。

二人は帰ってくるみんなとは逆方向に走り出した。

また、霧が出始めた。しばらく走ると劉が火口の方を指差す。

  「先生!」

霧の中に人影が見えた。向こうは深い深い谷。赤い舌のような溶岩が「おいで、おいで」と湧き上がっている。

 人影は黒くほっそりと立っている。

 …飛び降りるつもりか?!

二人は同時にそう思う。

 …早くあそこまで行かなければ!音を立てたら麗麗に気づかれる。

ゴロゴロした火山岩に足をとられて、直美はもうはうような形になった。ズルズルズルーッ…。あせればあせるほど、かえって亡霊のような麗麗から遠ざかるように思える。いや、あれは本当の亡霊か!亡霊が遠ざかっていくのではなかろうか。

  「先生、早く!」

先を登っていた劉が直美の手をつかんで引き上げる。二人はやっとの思いで、山頂にたどり着いた。

 やっぱり麗麗が少し離れた柵の前に二人に背を向ける形で立っていた。

 その時だった。細く、長く透き通るような歌声が聞こえてきた。

麗麗が歌っているのだ。

  「我爱你,爱着你,想老鼠爱大米……

地の底から湧き上がる溶岩が麗麗の声にあわせるかのようにゴーゴーとうなる。

  …どうしよう!

直美は劉を見た。恐ろしさと緊張で膝がガクガク震えている。

劉は直美に目で合図すると、麗麗に気づかれないようにわざと大きく

弧を描いて、麗麗の背後に回った。それから「パッ」と後ろから麗麗を抱きとめた。そして力を込めて抱きしめる。

 そうでもしないと、麗麗は本当に亡霊になって、劉の腕からいなくなってしまうんじゃないか。そう思った。自分の心臓が、麗麗の背中で「バクバク」なるのが分かった。

  「やっぱりね…。」

麗麗がつぶやく。

  「何が?」

…興奮させるとまずい。

劉は麗麗の耳元で優しく尋ねる。

  「劉だと思った。劉なら来てくれると思った…。」

  「試したのか?」

  「ううん、賭けたのよ。もし、劉が迎えに来てくれたら、

   もう少し生きてもいいかなって。」

  「何を言ってるんだバカ!」

  「うん。そうだね。バカだったね。ずーっと…。最初から。  

   初めは小さな、小さな裂け目ができる。だれも気が付かないような小さな裂け目。それがこんな大げさなことになる。もう、だれも止められない。大きな穴になって、そこから噴き出してくるんだ。」

 …何が噴き出すんだ?…麗麗は目の前の溶岩のことを言っているのか。

  それとも自分の心の中を言っているのだろうか。

おそらく後の方だと劉は思う。

 …麗麗は幸せじゃないのか?あのお多福が、麗麗に何をしたのだろ

う。

 直美は少し離れたところで二人を見ていた。劉は麗麗を後ろから抱き抱えたまま動かない。耳元で何か優しく語りかけているようにも見える。

  …やっぱりあの二人は恋人同士なのだ。

そう思うと、なぜか足元からずーんと疲れがはい上がってきた。

「オーイ、オーイ。

下の方から、学院の学生たちの呼ぶ声が聞こえる。

  「何してたんですか!!」

佐伯がハァハァいいながら坂を上ってきた。

  「うん、大丈夫。李さん、道に迷っちゃったらしいの。」

  「もーっ、だから皆といっしょに来るように言ったのにぃーっ。

   ギャーッ、直美先生、どうしたんですか、その手!」

言われて初めて気が付いた。直美の手はあちこち擦り傷ができて、血だらけになっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月22日 (土)

老鼠愛大米 NO.25

昼は草千里で食べる。

 「あーっ、坂本先生!茶鶏蛋(チャーチータン)を持ってきてくれたんですかぁ。なつかしいなぁ。」

趙が歓声をあげる。

 茶鶏蛋は卵を茹でた後、殻にひびを入れて、ウーロン茶、塩、五香

粉、八角などと煮て味をしみ込ませたものだ。口に含むと、八角とウ

ーロン茶の香りが口いっぱいに広がって実にうまい。

 以前、寮でこの茶鶏蛋を作っていた学生が火にかけたまま忘れてし

まい台所でボヤ騒ぎとなった。ウーロン茶をいぶしたようなにおいが

かなり後まで残った。その時以来、寮で茶鶏蛋を作るのを禁止された。

直美は学生から作り方を習って、遠足やスポーツ大会など、何かの行

事がある度に安い卵を大量に買って、この茶鶏蛋作って持っていく。

 直美の茶鶏蛋はいつも学生たちを喜ばせた。学生たちの喜ぶ顔はま

た、そのまま直美自身を幸せにした。

  「二つもらってもいいですか。」

劉がちょっとおどけて両手を差し出す。

  「どうぞ」

直美も笑いながら、劉の手の平に卵を二つのせる。

 … 劉の手は細く長く、優しい手だ。

 

内モンゴル出身の趙と高輝は草千里で馬に乗れると聞いて、大喜び

だ。

 「懐かしいなぁ。久しぶりだよ。」

 「えっ!?一人千円かよ。そりゃぁ、高すぎるなぁ!」

  「でも、久しぶりだからな。」

  「そうだな。」

二人は、馬の乗り場まで、駆け下りて行った。

係りのおじさんが引いてきた馬はたいそう年をとっていて、しかも

太っていた。そんな馬に趙たちは落胆している。きっとモンゴルの草

原を颯爽と走る少年のころの自分を思い出しているのだ。

 それでも二人はそれぞれの馬にまたがった。係りのおじさんは手綱

をもって、馬といっしょに歩き出した。高の乗った馬の方が、趙の馬

より少し前を行く。

 「負けるもんかぁ!」

趙は馬の腹を蹴った。

 馬は突然腹を蹴られて、「ブルルーン」と鼻を鳴らすと、目を剥いて

今にも走り出しそうという気配。おじさんも驚いて

 「蹴るなぁーっ!」

と叫んだ。

 「ケルナ?」

趙にそんなことばはわからない。

で、もう一度思い切り蹴った。

馬はもう、がまんできずにパカパカパカ・・・っと走り出した。

係りのおじさんは、

「ケルナー、ケルナ、ケルナーッ~」

と叫びながらしばらく馬と走っていたが、身の危険を察してか、にぎ

っていた手綱を離す。

 高も後ろから趙の馬が走ってくるのを見ると、

 「そうはいかんぞーっ!」

とうれしそうに、馬の腹を蹴った。

こちらの馬の手綱をもったおじさんがあわてて手綱を握ろうとしたが、

馬はあっと言う間に走り去って行く、

 二頭は馬の本能なのか、昔は競走馬だったのか、趙と高を乗せて、

一目散に(といっても、老馬なのでそれ程でもなかったろうが)走っ

た。

 「負けるかーっ!!」

 「そうはいかんぞーっ!」

二人は同じ事を何度も繰り返して言いながら、コースを二週走ったと

ころでやっと馬を止めた。というより久しぶりに走って疲れたのか、

馬が勝手に止まってしまったのだ。二頭ともぜいぜい息を切らしてい

る。

 係りのおじさんたちが後から走ってきて、盛んに何か言っているが、

趙も高も彼らの意味を解せないらしく、しばらくすると解放されても

どってきた。

 二人とも大満足の様子で、それでも

  「あれで、1000円は高すぎるよなぁ。」

とぼやいていた。

 おじさんたちにしてみれば、罰金でも取りたい気分だったろうに…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月20日 (木)

老鼠愛大米 NO.24

● 日帰り旅行

 九州日本語学院の貸し切りバスは九州自動車道を南下中。今日は学院の遠足。阿蘇への日帰り旅行だ。久しぶりの息抜き。初めて火山を見る者。車内はいつもの授業とはひと味も、ふた味も違う雰囲気に湧きかえっている。

 バスガイドは自己紹介が済むと、車内に向けて

「皆さん、バスはしばらく高速道路を走ります。その間みんなで歌でも歌って過ごしましょう。どなたか歌ってくださる方、いらっしゃいませんか。」

と訊く。

2組のみんなが「李麗麗!李麗麗!」とはやしたてる。

 「えっ?李さん? どのかたーぁ? ああ、あなたですか。じゃ、

  マイク回しますねぇ。お願いしまーす。」

麗麗は面倒くさそうにマイクをとった。きれいに化粧をして、以前のようにカサカサした感じは全くなくなっている。それでも、何故かあの時、麗麗のアパートの外で聞いた、あの妙に艶っぽい笑い声の記憶とは不釣合いに寂しげだ。

…麗麗はまだ田隈とつきあっているのだろうか。

我爱你想着你、就想老鼠爱大米……

麗麗の透き通った優しい声が車内の誰をも癒して流れる。

劉は麗麗の歌を聞きながら思う。

  …先生、俺は先生が好きだ。鼠が米を愛するように、そんな風に

   自然に、飽きることなく愛していたい。

ふいに隣の張が話しかけてきた。

 「麗麗のやつ、だれを『愛している』って歌っているかわかるか?」

 「いいや。」

 「そうか。最近、麗麗はだれかとつきあっている。知ってるか?」

 「知らん。」

 「ふーん。日本人って話もあるけどなぁ。」

中国人はとにかく情報を集めたがる。集めた情報はいつか金になると思っている。いや、実際にそうなることも珍しくない。例えば、学校で確認テスト、中間テスト、期末テストなどが終わると、その問題用紙をうちへ持って帰る。それをとっておいて、後輩が同じテストを受ける前にそれを後輩に売る。後輩も後輩だ。なんで、そんなものを金で買うのか?決まっている。いつだって、自分が他人より有利な立場に立つために金を使うのだ。でなければ、13億人の中で生き残るのはむずかしい。劉にはわかっていた。

…張はみんな知っている。俺が、麗麗と寝たことも、相手の日本人というのは事務の田隈だってことも。ただ、自分の持っている情報をより確かなものにしたいだけなんだ。

 直美も麗麗の歌に聞き入っている。麗麗が歌っているのは中国のシンガーソングライター、楊臣が作って、インターネットにのせ、爆発的に人気がでた「老鼠愛大米」だ。

直美はこの歌を聞きながら、同じ中国が生んだ歌姫、テレサ・テンの「別れの予感」を思い出していた。

「…海よりもまだ深く、空よりもまだ青く、あなたをこれ以上愛する

  なんて、わたしにはできない…」

「別れの予感」に震えながら、それでも男を思う女の心をこれ以上に表現した歌はないと思う。この歌を聴くたびに悲しさと寂しさと、切なさが胸にこたえる。

しかし今、麗麗が歌う「老鼠愛大米」は違う。明るさと優しさ、ごく自然に永久に人を愛する愛し方を教えているように思う。

 …わたしもいつかこんな風に人を愛せるだろうか…。

直美はバスの窓から外を眺める。窓ガラスは光を反射して、後ろの方に座っている劉の姿を映し出した。

 バスはいつの間には高速道路を離れて、山並みを縫うように走っている。いよいよ阿蘇山を登っていくのか、道は左へ右へカーブしながら少しずつ高度を上げていく。山の麓から風が温かい空気を吹き上げ、山頂の冷たい空気と交じり合い、にわかに霧が発生する。一面、霧に包まれ視界がさえぎられる。ライトをつけなければ走れない。運転手は速度を落とし、ゆっくりと少しずつ、上へ上へとあがっていく。

 しばらく行くとまた目の前がぱっと開ける。いつの間にか、町や川が眼下に見渡せる高さまで登ってきていた。

 「みなさーん、一度バスを降りてくださーい。私たちが今から行く  

  阿蘇山を遠くから見ることができまーす。ここは大観望。阿蘇の

山並みが観音様が寝ていらっしゃるように見えます、」

 バスを降りると、バスガイドに説明してもらったとおり、観音様が

仰向けに寝ているような阿蘇の全景がカルデラの向こうに悠然と姿を

現した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月17日 (月)

老鼠愛大米 NO.23

「まぁ、まぁ、まぁ、」

イタリア製のスーツ、アルマーニのネクタイをダンディー??に着こ

なしたつもりの八田が顔のところで、手をひらひらさせながら近づい

て来るのが見えた。

…あのおせっかいがまた来るよ!

斉藤は八田が大嫌いだ。こういう騒動が持ち上がるといつも事務長の八田が現れる。どんな事件にも首を突っ込み、しかも「大岡越前」よろしく全て自分の采配で解決したかのごとく自慢する。

 「わしにできんことはない!! I’m all mighty.(わしは全能

じゃぁ!)

と顔に書いてある。

 八田は以前、英語の教師をしていた。これまた、自慢話によると、教えるのがとても、とてもうまいらしく、

 「わしの教え子は全国津々浦々におる。しかもこれが全員秀才で・・・」

 

 …なら、なんでまた「津々浦々」で満足しているんだ!みんな中央

に出てくりゃいいじゃん。

斉藤は八田の言うことにいちいち反発したくなる。

「井戸の中の蛙」。だから八田は、井戸の中の住民をばかにする。

だれかを批判しては「ばか!」。何かにぼやいては「ばか、ばか。」

電話を思い切り音高く切っては「ばぁーかっ!」

もともと地声が大きいため、「ばか」の連発声は事務室にとどまらず、

隣りの職員室中に響き渡る。

ある時、ひときわ高い八田の声が聞こえた。

 「なんだ、バカ!こんなことしてたら、仕事にならんじゃないか。

バカっ!」

昼休みに佐伯が笑いすぎてか、目に涙をためて報告する。

 「あのですね。事務長の声、いつも大きいでしょ。だから、事務の

  松本さんね、耳栓して仕事していたらしいんですよ。それがばれちゃって、おかしいでしょう。」

佐伯はまた、おなかを押さえて「くっ、くっ、くっ」と笑った。

松本は八田の大声にこのところ耳栓で対抗していた。ところがたまた

ま八田に背中を向けて仕事をしていて、八田に声をかけられたとき、

気がつかなかったのだ。

 松本はなぜあの時、耳栓をしていたのか、だれが問い詰めても決し

て理由を言わなかった。そしてついには八田の怒りがおさまらず、学

校を辞めさせられるはめになった。斉藤は大いに同情したが、事務の

ことにまで口を挟むわけにはいかない。

 いよいよ退職、というその日、松本が斉藤のところにあいさつに来

た。

 「先生、これ次の方にあげてください。」

うなだれたまま、ささやくように言うと、小さなドロップの缶を斉藤

に手渡した。中には耳栓が「コロン」と入っていた。二つの耳栓はま

るで松本の心のお骨のようだった。

「王華さん、こちらで話を聞きましょう。斉藤先生、ちょっと王華さ

んをお借りしますよ。」

八田は得意げに鼻を膨らます。

「いえ、まだ話が終わってませんから。」

「斉藤先生、そんなに興奮してたんじゃぁ、話もできないでしょう。

みんなあきれて見てますよ。ここはわたしに任せて、ねっ。」

八田は王華を連れてさっさと事務室に入っていった。

 …何が『興奮している』よ。わたしはいたって冷静!何もあんたがしゃしゃり出てくることないのに。

今になって胸の中がむかむかするほど、腹が立ってきた。

事務室では、泣いている王華の肩をいたわるようにたたいている八田

の姿が見える。

 「わたし、今日は帰る!」

斉藤はさっき王華が入ってきた同じ通路を今度が自分が闘牛士のよう

にカバンを振って退場した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月16日 (日)

老鼠愛大米 NO.22

● 事務長

 「直美先生、ちょっとお時間よろしいでしょうか。」

佐伯がこんな風に改まって言うときは、大抵日本語の教え方について助言を求めたいときに決まっている。

 「何ですか?」

直美は斉藤にちらっと目をやってから、佐伯の方に向き直った。なぜ

か今日の斉藤はいつもと違う。自信に満ちた表情は陰を潜め、時折無

意識にため息が出る。

 「5組の曹さんのことですけど、発音がどうもいまいちなんですよねぇ。」

 「ああ、曹さんね。曹さん、そんなに発音が悪かったっけ?」

  「いえ、普通は他の人よりむしろきれいな発音をする人なんですが、

   なぜか、『テニス』の発音だけがわるいんです。」

佐伯は本の陰に隠れるようにして、小さい、小さい声で言う。

 「あの、『テニス』を『ペニス』って言うんです。わたしがいくら

  『テ・ニ・ス』って教えても、なぜか『ペ・ニ・ス』って。もう、

  恥ずかしくて…。」

学生の中には「かきくけこ」「たちつてと」と「がぎぐげご」「だぢづでど」の区別がつかない学生がいる。変わったところでは、「なにぬねの」と「がぎぐげご」の区別が分からない学生がいて、これは中国湖北省出身に多いと聞いたが、最初の発音指導のときに非常に苦労する。

「かぎ(鍵)」と教えたら「かに(蟹)」、「かに」と教えたら「かぎ」と言う。

そういう例は確かにある。しかし…。

 「あのね。『テニス』の『テ』を『ぺ』と間違えるはずがないでしょ

う。 『テ』は口の中で硬口蓋にくっつけた舌を一気に下げて『エ』

と発音、『ペ』は上下の唇をしっかり合わせてこれも同じく一気に

離して『エ』と発音。もともとの口の形が違うから、この二つの

発音は間違えようにも間違えられないのよ。」

 「テ、テニス。ペ・・・」

佐伯は何度も自分の口で発音の違いを確認している。

 「テニス、ぺニス、ぺ…」

 「佐伯さん、わかったらもういいから。あなたが練習する必要ない

でしょ。つまりあなたは曹さんにからかわれたってことなのよ。」

 「えーっ!そうなんですかぁ!!!」

  

…今頃気づいたんだっ!佐伯は本当にこの仕事に向いているのだろ

うか。

直美はまた斉藤の方をちらっと見た。そのときだった。

 「バーンッ。」

職員室のドアが思い切り開いた。

王華が斉藤に向かって、闘牛の牛さながらに突進してくる。そこいら

中のものを蹴散らして進んでくるように見えた。

 「先生、杉本さんに何を言ったんですか。」

王華は斉藤をにらみつけて、叫んだ。

職員室にいるものも、隣の事務室にいるものも、みんなが一斉に王華

と斉藤の方を見た。

 「先生、わたし。杉本さんの奥さんに会いました。」 

 「杉本さん?」

 「そう、先生の友達だそうですね。」

王華の顔は真っ赤になって、まるでどこかで見た閻魔大王の肖像画の

ようだ。

 「先生、杉本さんの奥さんに、わたしのこと話したでしょう。何をするか分からない子だから、保証人になるのやめなさいって。」

 「そんなこと言ってないわよ。」

…本当にそんなことは言っていない。確かに『騙されてはいけない』とは言った。しかし王華が信用できないなんて、はっきり言ったわけじゃない。

斉藤はあわてて日曜日のことを思い出そうとしていた。

 「先生、杉本さんの奥さんは『主人をあなたの保証人にはさせませ

ん』と言いました。どうしてですか。わたしは何も悪いことしてないのに。」

王華はますます興奮して、歯を食いしばり、奥歯をがりがり言わせている。斉藤は王華の勢いに気おされながらも

…ここでひるんではいかん!

と本能的に思った。

 「何を言ってるの。だいたいあなたが中洲の飲み屋で働いたりするからいかんのでしょう。」

 「違います。働いていたんじゃありません。」 

 「じゃぁ、何?だれかと飲みにでも行ったわけ!」

 「あれはおばさんの店です。あの日たまたまおばさんを手伝っていたら、杉本さんが飲みに来たんです。」

 「なぁーに、あなたおばさんがいるの?中洲に!聞いたことないわねぇ。」

 「先生はわたしの言うことを全然信用しないんですかぁ!」

あたりは異様な雰囲気につつまれた。だれもこちらを見ようとはしな

い。それでもあきらかに耳をダンボにして聞き入っているのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月15日 (土)

老鼠愛大米 NO.21

斉藤はその時、今まで一度も味わったことのないいじわるーな気分に

なっていた。

 「あら、それってあぶないんじゃない?学生の保証人になってる人

って下心ないとは言い切れないし…。」

言ってしまってから、すぐに後悔した。人を傷つけたり、陥れたりし

たことなどなかった。少なくとも自分はそう思っていた。

…わたしはいい人間だ。

しかしこの時の事を後で思い出す度に、「あの時は良子の困った顔が見たかったからわざとあんなことを言った」と確信できる。そして、その度に「ずきん」と心の奥が痛む。

 「それって、どういう意味?」

久しぶりの優越感に浸りながら、しゃべりまくっていた良子の表情が

一瞬曇ったのを確かめて、斉藤がさりげなく言う。

 「だって、ご主人、バーで知り合ってのせられたってこともあるじゃない。お酒の席のことだし。家の保証人なんかになって、もし

何かあったらどうするの?火事を出してアパート一軒分、弁償し

なくっちゃならない羽目になった大学教授の話もあるのよ。」

 「あら、火災保険をかけておけば安心なんじゃない?」

 「そうよね。でも、良子さんも王華がどんな子か一度見ておいたほ

うがいいかもね。あの子、結構男の人に色目を使うのが上手なの

よ。」

ついさっきまで、おいしそうにイチゴとアイスクリームのデザートを

口に運んでいた余裕の良子が、急に別人のようなに真っ青になって顔

をこわばらせている。

 「ねぇ、もうこんな時間よ。そろそろ帰りましょ!」

唐突に言うと、さっと伝票をつかんだ。

 「あら、今日は私が払うわ。」

斉藤が伝票の方に手を伸ばす。良子はきっとなって、伝票をくしゃく

しゃににぎって言う。

 「なら、割り勘にしましょう。この次いつ会えるか分からないし…。」

 …言い過ぎた。

帰りの電車の中で斉藤は深く反省した。隣りの良子はまっすぐに前を

向いたまま斉藤が話しかけても、「ええ」とか「そうね」とかしか応え

ない。きっと帰ってから主人になんと言おうか、そればかりが頭の中

をぐるぐるまわっているようだった。一方の斉藤も良子の状態と大差

はなかった。

 …主人は何を考えているんだろう。なんで私にテニスの話ひとつし

てくれなかったのかしら。

二人ともそそくさと別れを言って、ぞれぞれの家へ帰っていった。

今夜のひばりが丘は、もしかして「嵐が丘」?!…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月13日 (木)

老鼠愛大米 NO.20

 「ところでねぇ。最近うちの主人ひょんなことから、日本語学校に通ってるっていう、中国人の女の子の保証人になってねぇ。」

 「へぇ、どこの?」

話題を変えたいと思っているところへ、良子が斉藤のお得意部門へ話

を向けてくれたので、やっと体勢を立て直すことができた。

 「それが、あなたの学校の学生らしいのよ。『王華』って子。」

 「あぁ、王華さんね。知ってるわよ。またまた偶然ね。どこでお知合いになられたの?」

 「それが、中州のバーなんだって。主人の方は会社のお客さんを連れて飲みにいったらしいんだけど。そこで働いていた子がさ、最近寮を出てアパートに引っ越したいんだけど、アパートの保証人を探してる、とかでまぁ、なぜうちの主人がなってあげることになったんだか…」

良子は迷惑そうな顔をしながらも、自分の亭主が女の子に親切にす

るのを喜んででもいるかのように笑っている。

 …余裕なのだ。

と、そのとき斉藤は思った。この1年間、キャリアウーマンとしてバ

リバリ働いている斉藤は、子供のことと、食事のこと以外に話題のな

い主婦仲間に対して、優越感を持ってないと言えば、うそになる、い

やむしろ、朝早く新聞を取りに出てきたお隣さんと顔が合い、「いって

らっしゃい」と言われると、心地よい勝利感を味わいさえした。

 斉藤が「働きたい!」と思ったきっかけは、長女の美奈がまだ小さ

いころ、近所の公園の滑り台へ連れて行ったときのことだった。

 美奈が滑り台の階段を上っていって高台から

「じゃ、ママ~っ、滑るからね。見ててね!」

と声をかける。それから「スルーン」っと滑り降りる、下の砂場まで

すべり終えるとま、走って行って階段を登り高台から、

 「じゃ、ママ~っ、見ててねぇ~。」

同じ事を何度も、何度も繰り返す。

…この前来た時も、同じだった。今度来るときおそらく同じだ。当分は「ママー~っ、見てて!」のリピートが続くだろう。

斉藤は子育てが嫌いではなかった。それでも、これだけで終わっていいものだろうか?と思い始めていた。

その日はちょっと変わったことがあった。滑り台の前にある、小さ

な砂場で美奈と同じぐらいの女の子がスコップで砂を掘っていた。近

くに親らしき人がいないところを見ると、その子の家は公園のすぐそばなのだろうか。

 「お名前は、なんていうの?」

斉藤が尋ねると、女の子は砂場から顔を上げずに、

 「かおり、か・お・り」と自分の名を楽しむように繰り返す。

 「かおりちゃん…。かわいい名前だねぇ。」

 「うん、おばちゃんは?」

 「おばちゃん??ああ、おばちゃんはね、美奈ちゃんのママ。」

斉藤は滑り台の上にいる美奈を指差しながら言った。

 「ふーん、かおりのママはね、さなえ、さ・な・え」

また、ゆっくり繰り返す。

  …さ・な・え。

斉藤も、頭のなかでかおりのママの名を繰り返す。

考えて見れば、斉藤が他人から、あるいは自分自身を「所有の『の』

で呼ぶようになったのはいつごろだったろう。

斉藤さんの奥さん、斉藤の妻です、美奈の母です。美奈ちゃんのママ・・・。

  …そしていつか、○○ちゃんのおばあちゃんという名前で呼ばれながら、この世をおさらばするのか…。

それからしばらくして、斉藤は時々夢を見るようになった。それはあ

の時の女の子の夢だった。夢の中のかおりがいつも問いかける、

 「おばちゃんの名前は?」

目が覚める度に思った。

  …いつか、いつかはわからないけれど、いつかきっと自分の名前をとりもどそう。

斉藤は美奈が小学校へ入ると同時に、雄作を保育園にあずけて、「日本

語教師養成講座」に通った。1年過程、420時間コースを終了すると

日本語教師として、今の「九州日本語学院」に就職した。

もう、かおりは夢に現れなかった。

 …たとえ、また夢の中にあの子が出てきても、もう大丈夫。私は

  私自身の名前をはっきり言うことができる…。

そう思うこのごろだった。

ところが今はどうだ。良子はまるで、「あなたより私たちのほうがご主

人のこと、よく知ってるんだけど…。」と笑っているように思える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月12日 (水)

老鼠愛大米 NO.19

 「お待たせ!」

杉本良子が後ろから勢いよく背中をたたいた。

 「ああ、良子さん!びっくりするじゃないの。」

 「ごめん、ごめん!だって、斉藤さん、何だかぼんやりしてたからーっ!」

良子はバーゲンで買ったのか、紙袋を片手に提げている。薄いピンク

のワンピース、首にこれも淡いグリーンのスカーフを巻いていた。

 「良子さん、いつ見ても若いわねぇ。」

お世辞抜きでそう思う。

 「あら、斉藤さんの方がもうすっかりキャリアウーマンが板につい

て、すてきよ!」

…相変わらず…。

良子は昔から人を乗せるのがうまい。そうやって上手に旦那をおだて

て、自分は主婦を満喫している良子が、時にはうらやましくもある。

 「じゃ、『木曽路』にでも行こうか。」

二人はしゃぶしゃぶで有名な「木曽路」があるDADAビルへ向か

った。

 「最近、ご近所仲間となかなかこんな風に食事をする機会がないでしょう。もう、ひばりが丘ではすっかり今浦島ねぇ。」

斉藤は和服姿の仲居がしゃぶしゃぶの材料を置いて奥へ引っ込むと

早速良子からの情報収集を開始した。

 「そうねぇ。しばらくは斉藤さんがいないと何だかつまんないわねぇってみんなで行ってたけど、ほら最近はご主人がテニスに見えてるでしょう。だからもう、とっても楽しいわよ。」

 「えっ、ご主人って?!」

 「あーら、斉藤さんのご主人に決まってるじゃない。それともご主人、奥さんに内緒でテニスを始めれらたのかしら。」

 「あぁ、そう言えばテニスを始めるって言ってたのは言ってたんだけど…。」

斉藤は内心ひどく動揺していた。夫が若いころテニスをしていたのは知っていたが、退職してからテニスを始めたなんて聞いたことがなか

った。斉藤はこのとき初めて他人から夫の日常を聞かされる形になった。

 「斉藤さんのご主人、主婦仲間に大人気なのよ。冗談がお上手で、それがほら、とっても気が利いてるでしょう。先々週も、ご主人が少し風邪気味だとかで休まれたときがあったじゃない、あのときなんか、みーんながっかりしちゃって、テニスどころじゃなかったのよ。『田中さんの奥さんなんか、みんなでお見舞いに行ったらどうかしら?』なんて言い出して。さすがに『それはいくらなんでも…』ってことにはなったけどねぇ。」

良子は薄く切った肉を箸で器用につまんでは、鍋のスープで“しゃ

ぶしゃぶ”となでるように肉を茹でて、特性ゴマ味噌だれにつけては

口に運びながらも、ひっきりなしに話す。良子が話す自分の夫の様子

30年間付き合ってきた妻の斉藤にはまるで初耳の内容だ。

  …夫か冗談を言う?先々週、熱を出して寝ていた?

斉藤はもうほとんど狼狽に近い状態で、良子が自分の分の肉まで食べ

てしまいそうな勢いなのにも気がつかないでいた。

 「ちょっと、斉藤さん。どうかしたの。もしかしたら、最近のご主

人のこと知らないってこと?」

 「いいえ、そんなことないわよ。ただ、先々週のことに少し驚いたってことなのよ。日本語学校の入学式や何かで相当忙しかったも

んだから、主人の様子に気がつかなかった。それはちょっと反省

ね!」

斉藤は無理に作り笑いをしながら、あわてて肉をつまんだ。

 「そうねぇ。斉藤さんは私たちの憧れの人だものね。主婦から日本

語学校の主任までなれる人はそういないもの。ご主人の理解がな

いとできないことよね。いつもみんな言ってるのよ。あんな素敵なご主人で、しかも優しい。ほんとうらやましいって。」

  …どこが?!

夫が素敵だと思ったのは結婚当初だけだった。子どもが生まれ、毎

日忙しくお互いのことをゆっくり見つめあったり、考えたりしたりす

ることがなくなり、やがてそのことに疑問さえ抱かなくなってしまっ

た。

…「夫婦は空気のようなもの」なんてよく言ったもんだ…。

今も昔と変わらず、新聞を読みながら夕食をとる夫の横顔を眺めなが

らそう思ったものだった。

 それなのに、良子の話の中の夫はまるで別人ではないか。

…冗談をいう夫なんて。働く妻を気遣う夫なんて!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年4月11日 (火)

老鼠愛大米 NO.18

日曜日の天神は、佐賀、大分、長崎、熊本、遠くは鹿児島から来た

買い物客でにぎわう。斉藤は三越のライオン広場でご近所の主婦仲間、杉本良子を待っている。

午前中、市の美術館で「江戸・元禄文化服飾・装飾展」を見てきた。良子も丁度「今日、天神のデパートをまわって春の買い物をする」というので、「じゃぁ、久しぶりにいっしょに食事をしましょう」ということになったのだ。

斉藤と杉本良子が住んでいる「ひばりが丘」は15年程前に福岡市東区の山を切り開いて作られた住宅地で、都市高速を使えば都心まで20分。比較的土地の価格も安く一区画の面積も70坪と、かなり広い。斉藤たちが家を立てて移り住んだころは、どの家も同じように新しく入居したばかりだった。斉藤や良子たちはすぐに主婦仲間を作って、庭に植える花の苗を交換したり、子どもを学校や幼稚園に送り出した後は、「お茶しない?」と自分で焼いたケーキなどをだれかの家に持ち寄って、我が家自慢や、ご近所の噂話に花を咲かせた。季節季節の変わり目には、誰かがバーゲンの券をもらってきたり、おいしいレストランの情報を聞きつけてきたりするので、みんなで何台かの車に便乗して、豪華なお昼つきショッピングを楽しんだりした。

 住宅地周辺のレストランもこの主婦層を殊の外大事にしている。主

婦の人気をとると、休みや週末の夜に必ず家族を連れてもう一度やってくる。このリピーターをねらうため、昼のランチを豪華にし、しかも値段を低価格に抑えて、最高のサービスを心がけているのだ。斉藤たちはこんなレストランを次々と回っては、主婦時代を謳歌してきた。

しかし斉藤が今の「九州日本語学院」に勤めるようになってからは、この「ランチグルメ歩き」に参加できなくなり、それと同時に、食事がてらのご近所の情報交換とも無縁となってしまった。無縁どころか最近は斉藤自身が彼らの噂話のヒロインにさせられているのではないかと不安になっている。噂話というものは、必ず参加していない者が標的になるのが常なのだ。

 日本語学校の仕事は実にハードだ。しかも斉藤のように主任ともなると、教師の管理、教務と事務の橋渡し、学校で行われるスピーチコンテスト、スポーツ大会やクリスマス会などの行事の準備、運営など、毎日が戦争のようなありさまだ。その上、学校関係者の人たちとの付き合いも大事だ。時には男たちに混じって飲み会に出たりで、帰りが

深夜になることもある

 斉藤の主人は去年大手の電気会社を退職し、今は悠々自適の生活だ。「子どもたちも成人してそれぞれ独立したことだし、やっとこれから 二人っきりの人生だね。」

と言う夫に「今年から主任の話があるので、これからはあなたに代わ

って私が毎日出勤することにしようと思うの」と告げるのに相当迷っ

た。しかしいざ切り出してみると、夫は外にあっさり

「そう。いいんじゃないの。」

と快諾した。

…何かと口うるさい妻に一日中監視されて暮すよりはいいと思ったのか…。

 しかし、あれから一年。水を得た魚のように毎日生き生きと出かけていく妻を布団の中で見送り、時には酒のにおいを漂わせて夜遅く帰ってくる斉藤に、最近夫は腹を立てているように見える。夜の食事の

時間もほとんど会話がなくなった。

エンジニアだった夫は、日ごろから口数も少なく、過去の夫婦生活を思い出しても、大抵は斉藤の方が、夫が帰宅するのを待ち構えたようにして、「今日は子どもがどうしたのこうしたの、近所の会合でだれかがこんなことを言った」だの、一人でしゃべって一人で笑っていた

ように思う。そんな時、夫は適当に相槌を打って過ごしいたようだ。

そんな夫がやけに雄弁になった時がある。それは、新婚旅行の夜、長女の美奈が生まれた時。

…そういえば、長男の雄作が生まれた時はそれ程興奮しなかった。

後は美奈が彼氏を家に連れてきたときだ。考えてみれば夫が雄弁にな

る時は、人生のなんらかの節目を迎えた時なのだ。それならば、退職

という最後の節目にはかなりの雄弁になっても良かっただろうに、そ

の日は、なぜか夫は雄弁ではなかった。いつものように「ただいま」

と帰ってきて、風呂に入り酒を飲んだ。

「ご苦労様。」

斉藤が言うと「うん」と言ったきり、いつものように夕刊を読み始め

た。斉藤は「何か夫に言わなければ」と思ったが、声をかけそびれて、

その晩もいつものようにいつもの日が過ぎていった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月10日 (月)

老鼠愛大米 NO.17

      解雇

劉は李と別れて、ホテルのバイトに向かった。

…昨日のことはまずかった。金田に叱られるに決まっている。しか

しそれも仕方がないことだ。あんなときはだれだって俺と同じ事を

したに決まっている。ただ、麗麗を抱いたことは良くなかった。

 

うつむき加減にホテルの裏口から入って行くと、外に出てくる金田

と丁度鉢合わせになり、頭をひどく打った。

 「あいたーすっ(いってーっ)! ああっ、劉君!ちょっと、ちょ

っと。そこまで、出ようか。」

金田は打った頭をさすりながら、もう一方の手で劉の服の袖をひっ

ぱった。

 ホテルの脇にこれまた、「連れ込みホテル付属の喫茶店です」とい

ってもいいような薄暗いコーヒー店がある。客はといえば、ホテル

の従業員がちょっとした密談をしたり、ホテルを利用する客が待ち

合わせに使ったりする。二人は隅の席に向かい合わせに座った。

 「あのね、劉君。支配人がくさぁ、昨日のことめっちゃ腹かい

  てくさぁ、(怒ってねぇ)。あんたば、やめさせろって言うてきか

  んめぇーがー(きかないもので)。もう、困っとったいねぇ。」

 「すみません。でも、どうして支配人が昨日の事を知っているん

  ですか。」

 「それたいっ!信じられんやろうばってんくさ(信じられないだろう

)、昨日の客が支配人名指しで電話して来たったい。『お前ん

とこの、掃除夫は、どげな(どんな)教育をしとるとかって。

プライバシーを守るんがお前んとこのマナーってもんやろう

もん』って。『あの掃除夫をやめさせろ、やめさせんのやった

ら、お前んとこのホテルば、名誉毀損で訴える、とまで言うた

げな。』

  「名誉毀損?」

  「そう、名誉ば傷つけられたってことたい。ばってん(だけど)、

『こんなホテルに女を連れこむ奴がどんな名誉ばもっとうとか

っ!』てねぇ。」

  「すみません、迷惑をかけました。」

  「うん、俺も支配人に『劉君は悪くなかです』て、何回も言うた

とよ。でも、あの支配人頑固やろうがぁ。一回言い出したらき

かんもんねぇ。ほんと、すまんねぇ。」

結局劉は、その日のうちに今月働いた分の給料をもらって仕事を辞

めた。いや、辞めさせられた。

  …もういい。麗麗を自分勝手な思いで抱いた罰だ。

劉は、麗麗に誤りたかった。

…もう一度以前の友だちからやり直そう。

そう思った。そう思って、麗麗のアパートまでやってきた。麗麗の部

屋のドアの前に立つと、中から男の声が聞こえてきた。

 「李さん、李さんの唇は可愛いねぇ。口紅をつけたらもっと可愛く

なった。ほんとだよ。」

 …お多福の声だ!

劉は今朝の田隈を思い出し、またぎゅーっと拳を握った。そのとき、

麗麗の笑い声が聞こえた。

 「田隈先生も優しいです。ありがとう。そんなこと言われたことが

なかったから、うれしいです。」

どこかで聞いた声だった。そう、それは王華の声と同じだった。劉は

そのとき初めて気がついた。麗麗が女になったんだ…。

 ドアをたたくのをやめた。そして、足音がしないように、少しずつ

後ずさりしながら、麗麗の部屋を後にした。

 …麗麗が女になったんだ。あの田隈が…。

(女にしたんだ)劉はぐらぐらっと頭を振り、今の考えを消そうとし

た。なんともおぞましい気がする。そのことを考えたくないのに、い

つまでも麗麗と田隈の姿が劉の後を追いかけてくる。

 「くそっ!」

声に出して言ってみる。

 「くそっ!くそっ!くそっ!」

そう言いながら、地面を蹴った。そして思い出した。昼間、麗麗も俺

と同じように地面を蹴った。そしてはっと気がついた。

…今の俺はあの時の麗麗と同じなんだ。俺は昨日麗麗がかわいそ

うだから抱いてやったんじゃない。麗麗が好きだったんだ。

麗麗の花びらのような唇が「ほらねっ!」と笑っている。その後ろにあのお多福のへらへら顔が覆いかぶさるように現れる。

  …麗麗の言う通りかもしれない。今の俺はあのお多福以下だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 9日 (日)

老鼠愛大米 NO.16

 昨日、劉のアパートから帰って来ると、アパートの玄関の前に誰

かが座っていた。麗麗はびくっとして立ち止まった。

…えっ!田隈さんじゃないの。

麗麗が身構えるようにして、近づくと、膝を抱えて寝ていたせいか白い顔に何本かたてじわを作った田隈がぼんやりこっちを見た。

「あぁ、李さん、朝帰りですか。あっ、逃げないで。僕もう何にもしませんから。」

「何か用ですか。」

麗麗が冷たい声で聞く。

「いやーっ、参ったな。昨日は僕どうかしてたんだよなーっ。李さんがね、あんまり可愛いもんだから、つい妙な考えをおこしちゃったかなーぁ、なんて…。」

田隈はヘラヘラ笑う。

「私、可愛くなんかないです!」

「そんなことないよ。可愛いよぅ。とにかく昨日はごめん、ごめん。僕、李さんに謝ろうと思ってずっとここで待ってたんだ。李さんが劉君と仲良くしてるときにねぇ。あぁ、辛いなぁっと…。」

またヘラヘラ笑う。

…何が辛いよ。バーカ。

麗麗は田隈をにらんだ。

「わっ、怖っ!李さん、そんな顔するとせっかくのかわいい顔がだ

いなしですよぉ。ねぇ、いつか食事でもいっしょに行きませんか。

今度はお昼にね。僕が李さんの好きな物をごちそうしますからね。

で、これ君にあげるから。」

田隈は例の口紅を麗麗の手に押し付けるように握らせ、ばたばたと帰

って行った。

麗麗はしばらくそこに立っていた。生まれて初めて男の人に「可愛

い」と言われた。

 …お世辞に決まっている。しかもあいつが言ったのだから。私の

ご機嫌をとろうとして。

それでも女として悪い気はしなかった。

  …男なんて、男なんて!

劉と別れて、麗麗はアパートまでずーっと、つぶやきながら帰った。

ドアを開けようとしたとき、後ろに誰かいる気配がして、麗麗ははっ

と振り返った。博多人形が目を細めて笑っている。

 「李さん、顔のけが大丈夫?なんだかひどくなったみたいだったか

ら、気になって…。」

田隈が昨日よりもっとにやけた顔で言う。

 「いえ、大丈夫です。」

 「そう、これ、そこで買って来たんだ。お昼まだでしょう?いっしょに食べないかと思って…!」

そういいながら、ほか弁の袋を二つ差し出した。

 …えっ、昨日の話じゃ、レストランかと思ってたら、ほか弁?!

  でも、もう、いいや。劉、後悔したって遅いんだからね。

 「ありがとうございます。じゃ、私お茶入れます。どうぞ。」

なかばやけくそにアパートのドアを開け、田隈を部屋に入れた。その

時一瞬お多福の目が更に細くなったように感じだ。

…気のせいだったろうか…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 8日 (土)

老鼠愛大米NO.15

  今朝の劉は変だった。なんで田隈とにらみ合っていたのか。授業

に行く途中、廊下でにらみあっている二人の様子が気になった。だか

らわざと踊り場から劉を呼んだ。

…あの時声をかけなければ、劉は田隈を殴ってしまいそうな勢いだ

った。それに、李麗麗の様子もおかしい。いつもなら授業が終わ

ると真っ先に直美のところに走って来て、荷物を運んでくれるの

だが…。

今日はさっと教室を出て行った。朝は顔にあざを作って学校へ来た。

「どうしたの?」と直美が驚いて聞くと、「自転車に乗ってて転んだの

だ」という。

…それにしては、妙なところに傷がついたものだ。あれは確かに

だれかに殴られた跡にちがいない。

学校を出ると、麗麗がついてきた。劉と並んで歩く。劉が早足にな

ると、麗麗も早足になる。劉がゆっくり歩くと麗麗もゆっくり歩く。

しかも劉にしなだれかかるような歩き方をする。正直言ってわずらわ

しい。

…俺は昨日麗麗を抱いた。でも麗麗が好きで抱いたわけではない。

それじゃぁ、なぜ抱いたのかと言われたら、どう返事していいか。

麗麗が哀れだったのか、いいやそうじゃない。むしろ俺自身が哀

れだったのだ。麗麗の悲しみ、悔しさは俺のものと同じだった。

あの時、俺も麗麗と同じようにおん、おん泣いていた。泣きたか

ったのは俺なんだ。俺は俺自身を抱いたのだ。

劉は急に立ち止まった。

「なんだ?」

わざと冷たい言い方をする。

「だって~っ…」

麗麗が上目づかいに甘えた声で言う。

「意味がわからん!何が『だって~』だよぉ。何でついて来るんだ。」

「だって~、劉は私の

(彼氏)になったわけだし~ぃ。」

「え?俺がいつお前の男朋友になったわけ?」

「昨日のこと、もう忘れちゃったのぉ。麗麗は初めての経験で、劉

に大切なものをあげちゃったわけだから~。」

…麗麗はもう、昨日の哀れな麗麗ではなくなっている。男に一度抱

かれると女はこんなにも変わるのか?

劉は麗麗の変化に内心ひどく驚いていた。

「俺はお前の男朋友になったつもりはない。昨日はお前があんまり

かわいそうだったから…」

「なぁーにぃ?かわいそうだった?」

今度は麗麗がむきになった。

「じゃぁ、劉は私がかわいそうだったから、抱いてやったわけ?」

麗麗の顔が昨日の昼間のように白くなっていく。白くなった顔がまた

カサカサと音を立てているように見える。

「劉は私が好きじゃないの?今私のこと好き?」

改めて麗麗に聞かれてぎくっとする。

…俺は麗麗が好きで抱いたのだろうか。いやそうじゃない、でも

嫌いだったわけじゃない。

「俺は…。」

「そうなんだ、私を哀れんだんだ。かわいそうな私を抱いてくれた

んだ。」

麗麗が悔しそうに地面を蹴ってまた泣き出した。

「おい、泣くな。お前が泣くと何だか俺まで惨めな気持ち、という

か悲しくなるんだ。それって愛とか恋とかいうの違うだろう?」

「わかった。劉は私が好きでもないのに抱いたってことね。『やっぱ

り』ってことよね。」

「なんだよ。『やっぱり』って。」

「劉と田隈先生は同じってこと。私の弱みを利用したのよ。私をも

て遊んだってこと。」

「そんなんじゃないよ。俺とあいつをいっしょにするな!」

「いっしょよ。ちっとも変わらない。同類よ!」

博多人形のお多福顔がまたちらついた。

…そうか、俺はあいつと同じなのか。

麗麗は真っ青になって、駆け出しながら叫んだ。

「いいや、やっぱり違う。田隈先生の方がまだいいよ。先生は、悪

かったって謝ってくれたもん。私が万引きした口紅もくれたよ。」

「おい!」

劉は呼び止めようとした。

…お前はまた田隈に騙されているんだ。今度は逃げられんぞ。

そう言おうとした。しかし麗麗はもう後ろを振り返らなかった。

男朋友

(

ナンポンヨウ

)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 7日 (金)

老鼠愛大米 NO.14

      カップル

 学校の前に公園がある。街中の数少ない公園とあって、近所のマンションに住む親子連れが、その小さな砂場で遊んでいたり、腰の曲がった老人が、これまた背中の丸まった老犬を連れて散歩したりしている。

 この公園はハトが多い。春節の鯉事件ですっかり有名になった趙が直美のところへ来て小さい声で言った。

 「先生、ハトを捕まえようと思って昨日仕掛けをしました。」

 「なんで!?」

 「おいしそうでしたから。」

 「あなた、またやったの。」

 「いえ、今度は失敗しました。また、がんばります。」

趙は小さい目をくるくる回して、無邪気に笑う。

「あのネ、ハトは平和のシンボルなのよ!」

 「シンボル?!」

 「象徴ってことよ。」

 「ああ…。」

 「だから、捕ったり、食べたりしちゃだめなんです。」

 「そうですか。でもたくさんいますから…。」

 「そういう問題じゃないのよ。」

 「先生、ハトは平和のために何をしますか?」

 …ん??? 

ハトは平和のシンボルマークになったり、運動会のときにファンファーレと共にクス球が割れ、ハトが飛び出す。大歓声と共に、青空に吸い込まれるように飛んでいくハトの姿に、少なからず感動を覚えてきた直美だっただけに、改めて「ハトが平和のために何をした?」と正面切って訊かれると、

…な、なにをしたんだっけ??

と思う。

「先生、ハトのうんこ、汚いです。」

「うんこ? ああ、フンね。 趙さん、鳥のうんこは『ウンコ』って言わないのよ。『フン』、『フン』って言うの。」

「そうですか。フン、フン、フン。」

趙はうなずくような、掛詞をつくって喜んでいるような中途半端な表情で何度も「フン」を繰り返した。

 直美は職員室の窓からようやく芽吹いてきた緑を眺めている。その公園を劉と麗麗が並んで帰っていく。

劉が李を誘ったのだろうか。いやむしろ李が劉を誘ったように見える。一緒に帰る二人の後姿は腕を組んではいないのだが、李が劉に寄りかかっているように見える。

「よっ!新カップル登場!」

いつの間にか横に寄ってきた佐伯がニヤニヤしながらそう言った。

…そうだろうか。それにしては二人の後ろ姿がなんだか寂しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 6日 (木)

老鼠愛大米 NO.13

麗麗はストーブのそばによって、体を丸めた。田隈に殴られた頬がストーブの火に照らされて痛々しい。劉はその傷にそっと手を触れた。

麗麗がぎくっとして顔を引く。劉に傷跡を触れられて初めて頬に傷があるのに気がついた。

「あっ、ごめん。痛い?」

「ううん、大丈夫。」

小さく答えた。今度は触れられるままにしてじっと下をむいている。

麗麗の頬はカサカサと冷たく傷の所だけが妙にほんのりと熱い。劉は何度も何度も麗麗の頬を優しくなでてやった。

「劉!」

麗麗が急に劉に飛び掛った。不意をつかれて劉は麗麗の体を上に乗せて仰向きに倒れた。麗麗はそのまま劉の胸に顔をうずめて泣いた。

「おん、おん、おん」と泣く。子供が怖いものを見た後、母親に訴えるような、どこか懐かしい泣き声だった。

劉は体を少しずらして、今度は麗麗の体を抱え込むようにして抱いた。もう麗麗は声を上げていなかった。劉の首に両腕を回しゆっくりと顔を近づけじっと見つめる。麗麗の唇は小さくて形がいい。でもやっぱり血の気がなくカサカサとしていた。

…今度は俺が口紅を買ってやろう。

唇を重ね合わせながら、劉は思った。

 「何時?」

劉が体を起こして、寝たまま煙草に火をつけると、麗麗が横で声をかけた。

5時」

…麗麗も俺と同じようにあれからずっと起きていたのかもしれない。劉は煙草を吸うふりをしてすっと布団を出た。

 麗麗を抱いたとき、劉の中から何の感情も湧き上がってこなかった。ただ、ただ、麗麗の細く冷たくカサカサの体が、劉の心を更に冷たくした。抱いても抱いても、麗麗の体は温かくならなかった。二人とも抱き合いながら、限りなく惨めで悲しかった。

 …先生…。

麗麗を抱きながら劉は繰り返し思った。今ほど直美を抱きたいと思ったことはない。いや直美に抱かれたい、すっぽりと包まれてそのまま眠りたい…。

 「私帰るわ…。」

いつの間にか麗麗が服を着て後ろに立っていた。

 「送って行こうか。」

劉が優しくたずねる。

 「ううん、大丈夫。もう、明るいから…。」

麗麗は出口のところで「じゃ」と言って小さく笑った。

…麗麗の唇は小さくて形がいい。

劉はまた思う。

麗麗は自転車をこぎながら思う。

…劉のアパートを出るとき、何か気のきいたお礼の一言でも言えばよかったなぁ…。

後悔していた。小さいころからそうだった。王華のように、男の子に気軽に話しかけたり、冗談をいったりできない。好きな男の子ができても、その子の前に立つと緊張してかえっておどおどしてしまう。そのせいか今まで一度も男の子とつきあったことがなかった。劉とはあんなことになったけど、これから劉とつきあっていくことになるのだろうか。恋する前に抱き合ってしまった。だからこれから、少しずつ劉を好きになろう。

次の日、劉は学校の廊下で田隈とすれ違った。目を伏せたまま、黙って通り抜けようとすると「おい!」と田隈が声をかけてきた。振りむくとヘラヘラ笑っている。

「あいさつはどうした、あいさつは!学校の先生にはあいさつをすること!これが決まりでしょう!それからね、言っとくけどね。今度から学校にアルバイトの募集が来ても、劉君には紹介できませんよぉ。君は最近、評判わるいからねぇ。」

田隈はバカていねいな口調で言うとまたヘラヘラ笑う。

…何がお前が先生か、事務職員だろうが、しかもあんなことやって、先生があきれるぞ。

劉はムラムラと怒りがこみ上げ吐きそうになった。

「そうですか。評判悪いのって、僕だけですか。田隈先生はどうなんですか。」

田隈は急に真顔になった。博多人形のお多福みたいに、真っ白でポチャポチャした顔を劉の鼻先まで近づけて小さな声で言った。

「おい、調子になるな。そのうち強制送還させてやるからな。」

劉は拳を握った。

…やれるものならやってみろ!

その時、

「劉さん、何をしてるんですか。もう遅刻よ。また遅刻届けを書くつもりーっ。早く、早くーーっ!」

坂本先生の声が2階に上がる踊り場から「コロンコロンカラン」と劉を呼んだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 5日 (水)

老鼠愛大米 NO.12

劉はすぐに掃除道具を持って事務室を出た。3階へ行くには、事務室の隣りの従業員用エレベーターを使う。いつものように2階のエレベーター室で3階に上がるボタンを押した。

エレベーターが上がってきて、ドアが開く。するとそこに、なんと九州日本語学院の事務員、田隈が立っていた。田隈は2階と3階を間違えているのか、さっさとエレベーターから出てきた。更に驚いた事に、李麗麗がうしろから顔をはらして、ついてくる。そして劉の顔を見た。

…なんでお前がこんなところにいるんだ?

劉が麗麗に目で尋ねる。

…救命!(助けて)劉!

麗麗は恐怖で白くなった顔で、すがるように見つめ、口だけ動かす。

「あの、田隈先生、客室は3階です。」

劉はとっさに田隈をふりかえって叫んだ。田隈はぎくっして立ち止まった。ゆっくり向き直って、劉を見つめる。まるでスローモーションのように、ゆっくりと。そして、向き直ったその顔は麗麗と同じように白かった。田隈の顔はまるで博多人形のお多福のように下膨れでぽちゃぽちゃしている。

…女のようだな。

俺はこんな時になんでこんなばかばかしい事を考えるのかなぁ、と思った瞬間、今度はエレベーターの方で、どさっと音がした。振り向くと麗麗がさっきよりももっと青白い顔になって、床に倒れていた。

田隈は麗麗のところに駆け寄ると麗麗を起そうとした。麗麗の体はぐにゃぐにゃしてまるで死んだ人形のようだった。

「救急車、呼びましょうか。」

劉はなるべく小さな声で言う。

…まずいことになった。今救急車を呼んだら、俺が客と話した事がばれる。ついでに掃除をする時間が遅れる。

「いや、どこか休むところはないのか。たぶんいろいろあったんで疲れたんだろう。」

田隈が意外とけろっとそういうので、劉もなんとなく気おされてしまって、

「そうですか、そこに事務室がありますから、とりあえずそこに寝かせましょう。それから僕、部屋の掃除がありますから。 掃除が済んだらすぐもどってきますから。」

事務所の簡易ベッドに麗麗を寝かせると劉は田隈を残して、あわてて301号室へ飛んでいった。

…既に5分経過してしまった。まずいぞ。

それでも、もう昔の劉ではない。なんとか掃除を済ませ、室長のチェックも無事クリアして、事務室にもどって来た。事務室のドアを開けると、正面のベッドに麗麗が寝ていた。田隈はいなかった。

…逃げたな。

博多人形のお多福が、白い顔をしてあたふたと走って行くところを想像して笑いがこみ上げてくる。

「劉…。」

いつの間にか麗麗がベッドから起き上がっていた。万引きをしたのだという。田隈が払ってくれた口紅代金の代りに麗麗をここに連れ込んだのだ。

「で、私のコートのポケットの中に、口紅があるでしょう?」

麗麗はそういいながら椅子の上に置いてあるコートを指差した。

「いや、ないよ。」

ポケットの中には麗麗のいう口紅が入っていなかった。たぶんさっき田隈が帰るとき持って行ったにちがいない。

「そう、ないんだ…。」

麗麗は寂しそうに下を向いた。

…こんなひどい目にあったんだ。口紅だけでも残ったらよかったのに…。

 ホテルを出て、劉は麗麗を自分のアパートへ連れて帰った。このまま一人で帰すのには麗麗があまりにもかわいそうだった。なんとか元気付けてやりたい、それほど麗麗は落ち込んでいた。もう3月だというのにまだ部屋の中はひんやりと寒い。石油ストーブに火を入れる。マッチ棒の先からストーブの芯に移ると、火はストーブの丸い筒をワーッと湧き上がるようにのぼっていった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 4日 (火)

老鼠愛大米 NO.11

ホテルの掃除は、まだ外にもある、浴室だ。たいていの客はシャワーしか使わない。それでも女の客はよく髪を洗うので、長い髪があちこちにへばりついていることがあるため、特に念入りに掃除しておく。

 この一連の作業を一部屋20分以内で済ませなければならない。もし遅れると、5分につき100円ずつアルバイト料を減らされる。ホテルにして見れば、客の回転の速さが収入の差に直結するものだから、とにかく厳しい。だったら、さっさとやってしまえばいいのかと言えば、掃除が終わった後に、各階の室長が点検に来て、ちゃんとやっていなければ、同じように一箇所につき100円引かれる。

 劉が最初アルバイトを始めた月は遅い、掃除が下手、ということでアルバイト料をどんどんマイナスされ、最終的には20日働いたのに、13日分しかもらえない計算になった。

…今月の給料をもらったら辞めてやる。ばかばかしくてやってられないよ…。

そう思いながら、最初の給料袋を手にした。ところが思ったよりも給料が高かった。確かに引かれてはいたが、その額は17日分ぐらいあった。ずいぶん後になって金田が教えてくれた。

「最初の月がくさ、劉君、あんまり仕事が遅いし、掃除は下手やし、どうしょうかと思ったとよ。こげん(こんなに)マイナスして給料を出したら、劉君がやめるっちゃないかいなぁ(やめるのではないか)、っと思ってくさ。俺、自分の給料から引いて劉君の分に足しとったったい(足しておいたんだ)。」

「なんでですか。金田先輩の親切はありがたいけど、俺、正直言ってそういうの好きじゃないっす。」

「なんでーっ。せっかく優しくしてやったとに…。」

金田が口を尖らせて言う。劉は急にまじめな顔になって、

「自分がすごく惨めな状態のときに、優しくしてもらったり、同情してもらったりすると、余計つらくなるじゃないですか。『おまえはこんなに惨めだから助けられてるんだって、ダメ押しされてるような気になるんですよ。だから、惨めな俺に、せめて気がつかない振りでもしてもらってたほうが、楽なんだ。」

「へぇ、そんなことね(そういうことなんだ)。俺には劉君がひねくれとうとしか思えんばってん(ひねくれているとしか思えないけど)。俺、劉君みたいに頭良くなかろーが、わからんたいねぇ。じゃ、何?つまりうれしくなかったってこと?そんなら、今あの時の金、返してくれてもよかとよ。」

 金田は両手を劉の方に差し出しておどけたように笑った。

  いつもそうだ。普段は誰にでもこわーい顔でにらみつけるような話し方をする金田だが、劉にだけには兄貴のように優しい。

劉にはわかっている。金田も劉と同じように惨めで寂しいんだ。だから、自分自身をいとおしむように劉を大事にしてくれるのだ。

 「301号室、空きました。劉君清掃お願いします。」

インターフォンからまた金田のバリトンが聞こえた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 3日 (月)

老鼠愛大米 NO.10

● アルバイト

 「312号室空きました。劉君、清掃よろしく!」

体は針金のように細いのになぜか声だけバリトンのような金田の声がインターフォンから呼びかけてくる。劉は吸いかけのタバコを半分ちぎって灰皿の横に置いた。「はい、はいっと…。」事務所を出ると、脇にあるエレベーターの上行きのボタンを押す。右側が従業員専用、左側が客専用だ。時々、客が間違って従業員用のエレベーターに乗ってくることがある。

「万が一客と鉢合わせになっても、絶対に目を合わせてはだめだよ。話しかけたりしたら即刻首だからね。」

アルバイトとして採用されたその日に金田から言われた。金田はかなりしつこい正確なようで、同じことを3回も繰り返した。

「まー、劉君は中国人だから、こんなところに来る客に知り合いはいないだろうけど。以前いた川上ってやつには参ったよ。仕事の合間には客や女のうわさをして、あげくの果てには、客の中にあいつの友達の親父がいて、ほら、わかるかなぁ、『不倫』って言葉。まぁ、友だちの親父が女の子を連れてこのホテルに入っちゃったんだ。それを、川上が友達にばらしちゃったもんだから、その友だちの家はもめにもめたそうで、結局は、川上が言わなければこんな騒動にならなかったんだって、親父が怒鳴り込んできて。

 お前が不倫するからいかんのだろう!と言いたいところだけど、こっちは客商売だろ。支配人は頭の下げ通し。川上を辞めさせて一件落着。で、劉君を雇ったってことなんだけどね。」

あれからもう3ヶ月だ。ホテルのアルバイトは鄭たちがしているような、仕出し屋や店の皿洗い、スーパーの裏方などに比べたら、1時間1000円と、結構額が高い。このホテルがある一帯は街中といっても、飲食店や、飲み屋が狭い路地のあちこちにあり、ホテルも泊り客はほとんどなく、いわゆる「休憩」に利用する客ばかりだから、昼もけっこう早いうちから利用客が多い。たいていの客は2時間そこらで帰って行き、新しい客がまた来るといった具合なので、一つの部屋が一日に何度も利用されることになる。劉たちは一旦客が帰ると、すぐにその部屋に直行して、次の客に気持ちよく使ってもらうために清掃する。

赤い毛の長いじゅうたんに掃除機をかけ、部屋の広さとはアンバランスに大きい鏡にガラス磨き用の洗剤を吹きつけ、さっとぬぐう。あまり上品な趣味とはいえない金の縁取りのテーブルに置かれた飲みかけの缶ビールや、灰皿の吸殻、そこら中に散らばった「柿の種」を広い集めゴミ箱に捨てる。

…なんで日本人はビールを飲むとき必ず「ピーナツ入り柿の種」というおかきを食べるのだろうか。時にはベッドや枕の下にも落ちていることがある。

金田と飲んだとき、そのことを話題にすると、金田はテーブルの上の「柿の種」を高々と空中に投げ上げ、落ちてくるところへ口を持っていくと、「パクッ!」見事に食べて見せた。

「そりゃぁ、決まっとろーもん。」

金田は親しい人にだけ博多弁で話す。劉にも最近、博多弁で話しかけてくるようになった。

…つまり、金田さんは俺を親しい仲間の一人と認めてくれたんだ。

劉はちょっとうれしい気分になっている。

「ベッドで何時間も『あれ』だけやってるって奴はそげんおらん(そんなにいない)ってことやろ?そしたら、余った時間の暇つぶしか、まぁ、ちょっとした余興ってとこ。どっちにしてもなんとか女を喜ばせたいってこったい。」

金田はもう一度今度はピーナツを放り投げて、またもやうまく口でキャッチした。

 「金田先輩もベッドでそんなことして見せるんすか?」

劉がまじめな顔で聞く。

 「バカヤロー、そげんこと(そんなこと)言えるはずなかろうもんて!」

金田はニヤニヤしながら、劉の背中を「どん」と叩いた。

 劉は金田が女の横で柿の種を放り投げて遊んでいるところを想像する。

…先輩はしてないよなぁ。してたらかっこ悪すぎる…。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年4月 2日 (日)

老鼠愛大米 NO.9

レジで口紅を買い、スーパーの外へ出たとたん、何か胸の中の重―いものがすとん、と落ちたような気がした。

…やっぱり田隈さんに来てもらって良かった。もう、絶対こんなこ

とはしない。本当にこれっきりだ。

麗麗は田隈に礼を言おうとして振り向いた。そのとたん何か硬い物が麗麗の頬に「がつーん」とあたった。田隈の拳だった。一瞬、目の前がくらっとなり、よろけて転びそうになるのをなんとか踏ん張った。

「おい、俺は今まで、こんな恥ずかしい思いをしたことなんて一度もないぞ…。おまえのせいだ。ま、話は後だ。」

麗麗が殴られた頬をしきりになでている間に、田隈は向かい側から走

ってきたタクシーを止め、麗麗の腕をつかんで無理やり後部座席に押

し込んでから、自分も後から乗り込んだ。運転手に行き先を告げると

窓の外に向かって仕切りと頭を下げている。特に誰かが二人を見送っ

ているわけではない。それなのに「早速連れて帰りますんで…。」とい

うようなポーズなのか、田隈は角を曲がってスーパーが見えなくなる

まで、ずっと頭を下げていた。

 タクシーを降りると田隈は麗麗を連れて、狭い路地をどんどん歩い

ていく。人通りのないうす暗いところに差し掛かると、田隈が急に立

ち止まる。

…また殴られるのか…。

麗麗は身構えた。田隈はまたへらへら笑うと

「もう、殴ったりしないよ。だけどね、あの口紅3千円もしたんだぜ、口紅代は払ってもらうよ。」

「はい、すみません、今持ってないんですけど、明日学校で払います。」

「おっとそれは李さんの方が困るでしょう!学校で僕にお金を払ったら、みんなに説明しなくちゃならない。何で僕にお金を払うことになったのか。」

田隈は細い目を更に細めて、またずるそうにへらへら笑う。

「じゃぁ、待っててください。今日払いますから。」

麗麗はいやな予感がした。このままここから逃げたいと思った。今まで一度も感じたことのないような…。暑くもないのに、脇の下にじんわりと汗がにじんだ。

「李さん、日本語がわからなくても、僕が言ってる意味ぐらいもう分かっているでしょ。僕は今日のこと、学校の人にもうちの人にも言うつもりはないよ。だって李さんは初めてのことだからねぇ。口紅は僕が買ってやったんだ。っというより買わなくっちゃならなかったからねぇ。だからその分を今日ね、君に払ってもらおうってわけ。」

田隈はゆっくり路地の奥のほうをあごで指した。麗麗はぶるっと体を震わせた。田隈のぽちゃぽちゃのあごの向こうに「ホテル清川」という看板が見えた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 1日 (土)

老鼠愛大米 NO.8

「あなた、ちょっと用があるんです。店に戻ってもらえますか。」

言葉は丁寧だが、ひどく冷たく強い言い方だった。

…もう取り返しがつかない。見つかったんだ。

麗麗は黙ったまま、買い物袋をぎゅっと握り締めて、男に腕をとられたまま、スーパーへと引き返した。男は店の裏口からスーパーの事務所へ麗麗を連れていった。

「ここに座って。」

男の名札には「店長鈴木」と書いてある。店の事務所にはいくつかテレビカメラがあって、店のあちこちがそれで見えるようになっていた。

「あのね、ポケットに口紅いれたでしょ。ほら、あんたが立ってたとこね、テレビに映っているのよ。お客さんが買い物してるところはみんなこうしてテレビで見えるわけ。あんたがポケットに口紅入れたの、ここからちゃーんと見えてたんだ。ねっ。お金払ってないよね。ポケットの分!」麗麗はポケットの中の口紅を手で握り締めた。

…このまま溶けてなくなってしまったらいいのに。いっそ私もいっしょに溶けてなくなりたい。

「出してみて!さぁ!」

言われて、仕方なくポケットから口紅の袋を取り出す。

「ほーら、やっぱりだろう!ほんとに困るんだよねこんなことされちゃぁ。」

「あの、あのーぉ、お金払うの忘れました。」

麗麗はとっさの思いつきで言った。

「今から払います。」

「あれー?おたく外国人?中国?まただよ。最近多いのよねぇ。外人が万引きするの。そりぁ、中国人だけじゃないけどねぇ。ほんと多いんだよねぇ。あんたみたいなのが…。」

「あの、お金払います。忘れただけですから。」

「そうは、いかんでしょう!あんた盗ったんだからね。見つからなかったらそのまま帰ってたんじゃないの?しようがないなぁ。名前はなんての?日本語学校か何かの?学生さん?」

麗麗はまた口ごもった。こんなことが学校に知れたら、即、帰国させられるかもしれない、どうしよう。母の泣き顔が目の前をちらちらする。

…母さん!

「あんた、早く名前を言わないと、警察呼ぶからね。」

…けっ、け・い・さ・つ!!

麗麗は震え上がった。

…こんなことで、警察を呼ぶのか!

「学生証持ってる!なんだ、九州日本語学院じゃないか。とにかく学校と連絡を取るからね。いいね。」

李麗麗はずっと下を向いたままじっとしていた。涙がひざの上でそろえた手にぼたぼたと落ちた。

…なんとかしなくっちゃ。なんとか言わなくては。

そうあせっても、今の麗麗にはこの場を切り抜けるだけの知恵も語学力もなかった。

やがて学校の事務所から田隈が飛んで来た。田隈は事務所に入るなり大声で李麗麗をどなった。

「おまえなんてことするんだ。こんなことする人間とは思わなかったよ。早く店長に謝れ!」

そういうながら麗麗の頭を無理やり押さえつけた。麗麗は更に惨めな気持ちになった、

…これなら警察でもどこでも連れて行ってくれた方がよかった…。

心の中でつぶやいた。

田隈は店長と話し始めた。店長に話しかける田隈はさっきの態度とは全然違って、やけにへらへらしている。

「店長、すみませんねぇ。日ごろからこいつらには相当教育しているつもりでも、ほら、あれでしょう、なかなか文化が違うとさ、通じないんだよね、これが…。ま、この人も今回初めてのことなんで、なんとか許してやって欲しいんですよ。」

「あんたねぇ。そんな甘いことばっかり言うから、この人たちつけ上がるんじゃないの。」

「いや、いや。あんまり大騒ぎになると、こちらのお店にも迷惑がかかるでしょう。何しろこのスーパーも最近結構外人さんが多いんじゃないですか。あんまり警察沙汰なんかにすると外人さん来なくなったりしません?」

店長は形勢が悪くなったのか更に不機嫌になった。

「ま、店長さん、お願いしますよ。あのーっ、この口紅うちで買い取りますから、もちろんレジで普通に。それでどうでしょう。ほら、お前もしっかり謝って!」

また麗麗の頭を小突く。

「じゃぁ、今回だけはこちらの事務長さんの顔を立てて。」

いやぁ、僕は事務長じゃないんですけどね。ま、とにかく店長さんのご好意に 

 甘えて、じゃ、これで…。」

田隈はへらへらしながら、また麗麗の頭を小突くと事務所を出た。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2006年3月 | トップページ | 2006年5月 »