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2006年3月31日 (金)

老鼠愛大米 NO.7

スーパーの中は人がまばらだった。李麗麗はマニュキアや油とり紙、つけまつげが無造作にぶら下げてある化粧品コーナーの前に立っていた。何かを買おうと思っているのではない。油とり紙を手にとって値段を確かめる。

294円(消費税込み)、こんな紙切れが中国のお金なら20元、国ならちょっと贅沢な食事ができるよ。

日本に来るとき麗麗は母親に新しい財布を買ってもらった。財布を開けると、5000元入っていた。「日本に行ったら、いろいろとお金がかかるだろう。大事に使いなさい」と母親は麗麗を見ずにそう言った。つらくて、顔をまともに見られなかったのだ。日本に行くことをひどく反対していた母だった。ところが日本に来たとたん母親にもらったお金はあっという間になくなった。「お金に羽が生えているみたい…。」

学校で習った言葉どおり、お金は翼を広げて飛び立ったきり帰ってこなかった。

…母さん、財布大事にしているよ。でも入れるお金がないんだ。

麗麗はマニュキアに手を伸ばす。日本の女の子は爪に花や、星の絵をマニュキアしている。「あれはぺディキュアっていうのよ。」と学校の佐伯先生が言っていた。

「私もしたいんだけど、学校ではね!いろいろうるさいのよぉ、学校も。へへへ…。」

佐伯先生は、教え方はうまくないと思うが、李たちと年が近いので、いつも友達のようにいろんなことを話してくれる。

マニュキアから手を離して今度は何色も並んでいる口紅のコーナーへと進む。また母の顔が浮かぶ。

…母さんは化粧一つしない人だった。自分のことなんて、かまう暇がなかったのかもしれない。毎日毎日、麗麗のために働いた。母の女としての大半はそうやって終わった。昔はきれいだったとよく近所のおばさんから聞かされた。麗麗はたった一度だけ母親が化粧をしたのを見たことがある。それはれ麗麗が瀋陽で一番難しいと言われる、瀋陽第一高中学校に入学したときだった。  

その日は入学式だった。母は薄いグレーのワンピースを着ていた。頬に少し紅をさし、薄いピンクの口紅を引いた母はそれだけで、参列しているどの母親より、清楚で美しかった。「父さんに今日の娘を見せたかった。」

…母さんはきっとそう思っているんだ。

麗麗は母の横顔を飽きずに見ながらそう思った。麗麗の父は肺がんで5年前にこの世を去っていた。

…私も見せたかったよ、父さん。あの時の母さんはとってもきれいだったよ!

 麗麗は陳列してある口紅を一つ一つ指で押していった。

…これ、母さんに似合うかも…、これもいいな。

一本抜いてみる。「お試しください!」そう張り紙がしてあった。ふたをとって、手に一本引いてみる。赤い筋が透き通るような麗麗の肌に現れた。これ、母さんに似合うかなぁ。もう一本とって見る。また、一本引いてみる。今度は前のより少しオレンジがかっている。うーん、少し派手かな…。さっきのがいいかも。もう一度先ほどとった口紅を今度は封を切っていない袋ごととる、それから、あたりを見回した、麗麗が立っているコーナーには客がいない。数人の店員たちもレジを打ったり、お客の相手をしたり、忙しそうでだれも麗麗を見ている人がいないのを確かめると、口紅の袋をさっとコートのポケットへ入れた。買い物かごにはさっき食料品コーナーで買った、油と魚の缶詰が入っていた。麗麗はレジに向かった。かごをレジに置くとレジ係の女の子が、

「カードはございますか?」

と聞いてきた。このスーパーは、店の買い物カードを出すと、ポイントがついてくる。100円で1ポイントだから、50000円分買うと500円のお買い物券が発行される。李麗麗も登録している。

「忘れました。」

即座に応えた。カードには自分の住所や名前が書かれている。

「そうですか、じゃぁこの次レシートを持ってきてくださいね。」

麗麗は勘定を済ませると、できるだけあわてないように店を出た。店を出ると急に口元がふるふると震えだした。今にも泣きそうになる。

 …なんでこんなことしたのかなぁ。盗った口紅なんかもらっても母さんが

    喜ぶわけないのに…。戻して来ようか、どうしようか…。

突然道の 真ん中で立ち止まる。それから思った。

…やっぱり、戻して来よう。

振り返ろうとしたとき、

「もしもし!」

野太い男の声が背中で聞こえて、大きなごつい手が、麗麗の肩をつかんだ。

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2006年3月30日 (木)

老鼠愛大米 NO.6

      万引き

 「先生、荷物、持ちましょう!」

授業が終わると直美が担任をしているクラスの李麗麗がいつも駆け寄ってくる。日本語の授業は、絵カードやカセットデッキ、学生に配るプリントなど、授業に持っていく荷物がどうしても多くなる。授業が始まるときは、日直と称する係りの学生が職員室まで先生のために荷物を取りに来てくれるが、帰りは一刻を争って、アルバイトに飛び出していくため、直美の荷物のことなど、だれも気にしてくれない。

そんな中、李だけは、毎回直美の荷物を運んでくれる。李は歌がうまい。少しかすれた声で歌う。体は細くまだ少女のようなあどけなさがあるが、歌うときだけは妙に色っぽい。学期末などみんなでカラオケに行くときなど、日ごろは目立たない彼女が、急にみんなの人気者になるのだ。直美の授業は「聴解」に役立つ事から、歌の練習をよく取り入れる。そのためか、李は特に直美によくなついている。

 「ありがとう。」

職員室の入り口でいつものように、李から荷物を受け取ろうとしたとき、李の手の甲に直美の手が触れた。

 「あっ!」

直美は驚いて、もう一度、李の手を触った。李の手はあかぎれてざらざらしていた。ところどころ皮膚が裂けて、血がにじんでいる。

 「どうしたの?」

直美が聞くと李は真っ赤になった。

 「あぁ、何でもありません。アルバイトで皿洗いをするから…。

  わたし、昔から冬になるとあかぎれになります。」

 「えぇ、李さん、それはだめよーっ!今度わたしがクリーム持って

  来てあげるからね。」

 「いえ、先生大丈夫ですから…」

李は手を隠して逃げるように帰っていった。

次の日直美は李にハンドクリームを持って行ってやった。。

「先生、いいです。大丈夫です。」

やたらに遠慮する。

 「遠慮しないで。わたしも使ったものだから。これ効くのよ。ちょ

っとつけてみて、ダメだったら返していいからね。ねっ。」

無理やり押し付ける形になって、直美は少し後悔した。でも、今更引くわけにもいかず、李の方も、直美の申し出を無下に断ることもできずに、真っ赤な顔でクリームを受け取ると、逃げるように教室を出て行った。

 貧しいとき、つらい時、親切にされるのが一番堪える。親切を受けると余計に惨めになる。自分が貧しいことを、自分がつらいことを、否定してながら生きているのに、他人の親切を受けると、自分の惨めさを認めなくてはならない。そんな李の気持ちを直美が理解できるはずもない。

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2006年3月29日 (水)

老鼠愛大米 NO.5

日本語学校の月曜日はいつもに増して忙しい。1時間目はホームルーム、聴解の授業、前の週に行ったテストの解説、今週のテスト、そ

の後の授業。午後からは各学年に分かれての担任会。それから、主任の斉藤から今週の連絡事項が言い渡され、各クラスから寄せられた、さまざまな問題、進路指導などについて話し合いがなされる。

 午後三時を回ったころやっと一息つく。直美が顔が隠れるくらいの教材や資料を抱えて、職員室に入ってくると、佐伯の横の席の机にその荷物をどさっと置いて、座った。佐伯はいつものように、めがねを鼻まで下げて、何やら事務室の方を伺っている。

 「どうしたの?」

 「直美先生、趙さんが事務室で叱られていますよ。また何かやったのかなぁ。昨日集まった連中も一緒にいるみたいだし…。昨日の事と何か関係があるんですかねぇ。」

直美も事務室の方に目をやる。趙と同室の秦、張玉、馬が揃って下を

向いて八田事務長に怒鳴られている。八田の横には今時珍しい黒い革

ジャンのおじさんが不機嫌そうな顔で四人をにらみつけている。

「斉藤主任、趙さん、また何かしたんですか。」

と直美が聞く。

趙は性格は悪くないのだが、日本に来てからすぐに万引きで捕まっ

たり、アルバイトを無断で欠勤したり、その度に八田が相手先まで出向いて謝って来る。だから何か事件、というとみんな頭から「また、あの趙さんが何したの?」と疑いの目で見てしまう。

 斉藤が、難しい顔をして小声で聞く。

 「昨日の趙さんとこでやった春節のパーティー、坂本さんも行った

の?」

 「はい、行きました。」

 「その時、鯉料理が出たでしょう。」

 「ええ。あれ、錦鯉でしたよ。どこで買ってきたのかと思いました。」

 「で、食べたの?」

「いいえ。でも佐伯さんが食べましたけど。」

 「あれねぇ、趙さんたちの家の隣りに公民館があったでしょう。あの公民館の池の鯉なんだって!」

 「はぁーっ!」

直美と佐伯が同時に声を上げた。佐伯の顔がみるみる青くなっていく。

 「坂本先生、私吐きそうです!」

 「何言ってんの。あれから、ずいぶん時間が経ってるでしょう!

  大丈夫よ。」

 「いえ、もう…。」

佐伯はあわててトイレの方へ走っていった。そしてその日はそのまま

もどって来なかった。後で聞いた話では、学校の近くの病院で検査を

してもらったらしい。医者になんていったのか、誰も聞いていない。

 「坂本さん、とにかく『春節の会に趙さんの家に行きました』なんて向こうが聞いてこない限り、自分から言うもんじゃありませんよ。わかった!」

斉藤はピシャリというと、何事もなかったかのように、下を向いて、

何か書類を書き始めた。

 結局、趙たちは始末書を書かされ、1週間毎日自習室で勉強させら

れる罰を受けた。学校は鯉代として公民館に20万円の罰金を払った。

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老鼠愛大米 NO.4

趙たちが住んでいるアパートは、町の公民館の隣りにあった。2

建てで、1階に5軒、2階に5軒、右側に鉄製の階段があり、そこを

上ると、廊下があり、その廊下に面してそれぞれの部屋のドアが並ん

でいる。そのドアの横にはどの部屋も洗濯機を置いている。部屋が狭

くて入りきれないのだろう。洗濯機から出る水は、廊下の脇に作って

ある雨どいの溝にホースで流すようにしてある。

 「あーっ、先生。いらっしゃい。過年好!」

趙がドアを開けた。

 「先生、遅いネェ。みんな来てるよ。」

 「ごめん、ごめん。これケーキ!みんなで食べて!」

部屋の中へ入ると、2LDKの奥の部屋に二段ベッドが4つ並んで

いるのが見えた。趙たちは4人でこの部屋を共有しているのだ。リビ

ング、といっても台所と兼用だが、その中央に丈の低いテーブルが置

いてあり、その上に紙コップやら、紙皿が並んでいる。「会は1時から」

と聞いたので、少し遅めに出かけて来た。それでもまだ、何も用意し

ていないらしい。

 中国では客が来るとまずおもむろにその家の主人が応対に出る。お

茶を飲みながら、たっぷり時間をかけて、遠路はるばる(近くても同

じだが)訪ねて来てくれた客を労い、互いの近況を話す。それが1時

間に及ぶこともある。それから、いよいよ会食の運びとなる。客が来

る前にほとんどの料理を用意しておいて、客が来ると早速、宴会を開

始する日本の習慣とはかなり違っている。

 「佐伯先生も後から来ますよ。」

直美は別に驚かなかった。佐伯は心得ている。料理ができるころを見

計らって来るつもりだ。

 中国の北の方では春節に必ず餃子を作る。劉がひとつずつ伸ばす餃

子の皮にみんなで餡を入れて、包む。 300個程作ったころやっと佐

伯が来た。

 「坂本先生、早いですねぇ。」

 「早くないわよ。佐伯さんが遅いだけよ。」

直美は粉で白くなった顔を佐伯に向けて笑う。

 いよいよ餃子を茹で始める。中国の北ではこの水餃子が主流だ。

「先生たち、味見してみてください。」

趙が茹で上がったばかりの餃子をにんにくをすりおろした酢醤油に

つけて持ってきた。一口食べると、肉と野菜がからまりあった甘い

汁が口の中で広がった。

「うまーい!」

佐伯が感激して叫ぶ。

「やっぱり、自分たちで苦労して作ると味が違うわネェ!」

…あんたは苦労してないのよ!

みんなあきれて佐伯を見た。

 それから、次々と料理が出来上がっていく。トン足と野菜の油炒め。春雨と鶏肉の炒り煮。直美のお気に入りは、ジャガイモを縦に千切りにし、スパゲティーのぺペロンチーノ風に、オリーブ油とタカの爪で炒め塩コショウをした料理だ。これをビールのつまみにして、大いに飲んでいると、今度は大皿料理が運ばれてきた。なんと鯉の姿揚げだ。鯉の背に包丁で切れ目を入れて、丸ごと油で一気にあげると、その切れ目が鯉のうろこのようにはねあがる。これに片栗粉でとろみをつけたかけ汁を上から流すと、皿からジューッと勢いよい音があがり、部屋中に甘酸っぱい香りが広がった。

 「えーっ、この鯉、錦鯉じゃなーい。どこで買って来たの。この辺

にも売ってるんだ、鯉!」

大川出身の佐伯は川魚には慣れているのか、久しぶりなのかしらないが、えらい興奮して叫んでいる。

 趙たちは佐伯があまりにも喜ぶものだから、顔を見合わせて笑っている。

 「さぁ、坂本先生も食べてください。」

 王華が食卓の向こうから声をかけてきた。 

 「ごめん、私、川魚はちょっと…。」

「ええっ!坂本先生、川魚はだめなんですかぁ。おいしいのにーっ!」

佐伯がパクつきながら言う。直美はかまわず、ビールをグラスについだ。

 「先生、手どうしたんですか。」

いつの間にか劉が直美の横に座って、今朝やけどして赤く斑点状になった直美の手を見ている。

 「あっ、これ。今朝コーヒー淹れててね、お湯がかかっちゃって。」

 「お湯がかかったんですか。それとも先生が自分でかけたんです

か?」

劉は、まじめな顔で聞く。「お湯がかかった」「お湯をかけた」自動詞

と他動詞の違いはいつも学生の悩みの種だ。劉は黙って立っていくと

趙に、一言二言声をかけ、それから、軟膏を借りてから、直美にとこ

ろへ戻ってきた。劉はいきなり直美の手をとって

 「先生、僕が塗ってあげるよ。」

と言う。

…久々だな。男に手を触れられるなんて。

直美の胸が“キュン”と痛む。

…まぁ、男といっても10歳も離れてりゃぁーね。ちょっと違うかも。

 「大丈夫、自分でするから。」

つい友達言葉になった。手を引こうとすると、劉がぎゅっと手に力を

加える。

 「動かないで。すぐ済むから。」

劉はは少し馬鹿丁寧に軟膏を塗る。劉の横顔が去年よりずっと大人び

て見えた。気のせいだろうか、塗り終わってからも、劉は直美の手を

ほんのし少し長めに握っているように思った。そして、直美もなぜかそのまま握られていたい、という気がした。

 「あれぇ、小劉、坂本先生の手なんか握って、あやしいなあ。」

王華が二人を目ざとく見つけて、からかうような声をあげた。みんな

の視線が一斉に二人に集まる。

 「先生、やけどしてたから…。」

劉は真っ赤になって弁解した。

 「今朝は僕の王華にちょっかい出すし、今度は趙の大好きな坂本先生を横取りかぁ。劉にはみんな用心しろよーっ。」

張岩はもうだいぶ酔っ払っている。

 「ええっ、私そんなにもてるのぉ。彼氏現在募集中!よろしくね。あっ、でも学校の先生と学生の恋愛は禁止よーっ。残念でしたーっ!」

 「ええっ、そんなぁ。」

今度は王華が口を挟む。

「私、23組の榊原先生が大好きなのにぃーっ。」

「ほらほら、王さんがそんなこと言うから、張君が壁の方向いて泣ないてるじゃないの。」

佐伯が声をかけた。張岩は本当にメソメソ泣いていた。みんなそれを見て大笑いになる。

…よかった。

劉はほっと胸をなでおろした。おかげでもう、だれも自分と坂本先生のことを気にしていない。先生の手は少しひんやりとして冷たかった。このままずっと握って温めていたかった。先生の声が劉のすぐそばで「カランコロンコロン」と響く。

…先生、俺今朝泣いたんだ。

声に出して言ってみたかった。坂本先生は「そうなの」と言って劉の頬をなでてくれるだろうか。

 「先生、もう遅いから、俺送っていこうか。」

 「大丈夫、私、タクシーで帰るから。」

直美は劉の言葉にはじけるように立ち上がった。このままいちゃまずいことになる。本能的にそう思う。

 「ありがとう。劉君、あなたはいつもやさしいね。」

直美は劉の耳元にささやいた。それから、佐伯に声をかけ、趙のアパ

ートを出た。

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2006年3月27日 (月)

老鼠愛大米 NO.3

「あちっ!」

坂本直美は思わず、やかんを落としそうになった。ドリップ式のコー

ヒーをいれていて、お湯が手の膏に跳ねたのだ。あわてて水道の水を

流して冷やす。お湯がかかったところが赤い斑点になった。

 今日は中国の春節、日本で言えば旧暦の正月だ。日本語学校の趙に

「先生、みんなで春節を祝うので、22日、私のうちへ来てくださ

い。」と誘われた。

 本当は「22日、暇ですか。」と最初に聞いて欲しかった。そした

ら、「あぁ、ちょっと用事があるんだけど、何?」と言える。それから、

誘われると、行きたくないとき断りやすい。

…「相手を誘うときは、まず相手の都合を聞くこと、これは基本ですよ。」…何度も教えたはずなのになぁ…。

今日はキャナルシティの“冬物クリアランスセール”に行くつもりだったのに。前から気に入って買えなかった毛皮のコート(もちろんフェイクだけど)を買うつもりだった。

 「学生との教室外でのコミュニケーションも、日本語教師としては大事なことよ。」

先週、職員室では隣の席の佐伯と雑談でこの話をしていると、主任の斉藤がピシャリと言い放った。

 斉藤は日本語教師暦15年のベテランだ。その前は塾で英語を教えていたそうだ。直美とは経験も知識も格段に違う。

 「そうですかーぁ…。斉藤主任は学生から誘われたら、必ずいかれるんですか?」

直美が不満気に聞き返す。

 「そうねぇ。行ける時は大抵行ってるわね。学生と友達になってると、授業でヘマした時なんか、学生の方から助けてくれるってこともあるからねぇ。」

斉藤が授業でヘマをすることなんか、絶対にない。きっと私たちに向かってそういっているんだと直美は思う。

 「うん、うん。そう、そう。」

突然、隣りの佐伯が鼻までずり落ちてきためがねを右手でせわしくか

き上げながら相槌を打った。

 「私もこの間、『学校行きますと学校行きますってどう違うんですか』って聞かれたことがあったんですよ。ええっ!どう説明しようかなぁってあせっていたら、昼休みによく話しかけてくる張さんが、『先生、同じですよね』って助け舟出してくれて、『あっ、そうですね。同じです』って答えてその場はセーフ。ほんとあんなとき助かりますよネェ。斉藤主任がおっしゃる日ごろから学生とのコミュニケーションをとること、って言葉、実感した瞬間でした、はぁ、はぁ、はぁ…」

…おい、おい、おい。と直美は思う。「へ」と「に」の違いなんて、日

本語教師なら基本中の基本でしょうよ。

と直美は思う。

 最近、“授業が分かりくい”という学生からのクレームが佐伯に集中している。

 「佐伯先生の授業はゲームがたくさんあって、楽しいです。でも授業はあまりわかりません。」

以前職員室の上の教室で“椅子とりゲーム”をして大騒ぎ。学生が走

りまわって、二階の教室の床をどんどん踏鳴らし、職員室の天井から

ゴミがパラパラ落ちてくる程だったものだから、後で校長にこっぴど

く叱られたことがあった。

 直美はチラッと斉藤の方に目をやった。案の定、主任は机の上に積

み上げられた、辞書や教科書の間に顔を隠すようにして、ため息をつ

いている。

…この分だと、佐伯は今学期一杯で学校を首になるかもしれない。

 「じゃぁ、やっぱり春節、行ってきます。」

直美はコーヒーのお代わりを取りに行く振りをして、席を立った。

 さっきお湯がかかったところがヒリヒリする。直美は化粧台の前に

座って、じっと自分の顔を覗き込む。

 「25歳はお肌の曲がり角?しかしわからん。曲がってどこへ行くんだ?」

 最近夜更かしをした朝など、何だかデローンとした皮膚になる。

25歳で角を曲がるとき、悪い道を選んじゃったかな?

直美は、化粧水を手のひらにたっぷりのせると、パンパンパンと頬に

叩き込んだ。

 「早くしなくっちゃね、結婚!」

鏡の向こうの直美がこちら側の直美に呼びかける。

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2006年3月26日 (日)

老鼠愛大米 NO.2

「お前、また…。あっ!」

ドアの外に立っていたのは鄭ではなかった。王華と張岩が二人で劉のパンツ姿を笑っている。

「新年快楽!」

王華が甘えた声であいさつした。

「今日、趙の家で新年会をする予定だっただろう?」

クラスメートの張岩は最近、王華とつきあっている。王華は劉と同じ、黒龍江省ハルピンの出身で、高校のころから知っている。王華の周りにはいつも男友達がいて、特に劉の親友の田猛と親しかった。日本に来るとき、劉たちを見送りに来た田を今でも思い出す。

…田はあの時泣いていた。俺以外のだれも田が泣いているなんて気がつかなかっただろう。だって田の奴、

 「おーい!劉、お前が日本で“鬼子”に噛みつかれても、俺は助けに行けんからなぁ。がんばれよーっ!それから俺の王小姐をよろしく!あっこっちは“毒蛇”だから、心配いらんかぁ!」

 「何が“毒蛇”よーぉ!」

 王華が田を追いかけて、バチバチ田の背中を叩く。田は「キャー

ッ」と言いながら逃げ回る。見送りに来た同級生たちがそんな田たちを笑いながら見つめていたっけ。だけど田、俺の目はごまかせないぞ。お前は泣いていたんだよな。恋人の王華をよろしくな、劉!、そういってお前の目は泣いていた。

 ところがどうだよ。その王華は日本に来たとたん、張と仲良くなった。なんで張を選んだかって?そりぁ、決まっている。張の家が金持ちだからだ。張にくっついていれば、他のみんながしているような食堂の皿洗いや、ビルの清掃なんてアルバイトをしなくても済む。

  「小劉、趙の家にもうみんな集まってるんだって。今日は張さんがレンタカーを借りてきたんだ。早く行こうよ。」

 王華がまた、からむような声で誘う。

 …お前に小劉なんて呼ばれたくないよ。

劉は、あわててズボンをはきながら、思う。

 「俺、今日のどが痛いんだ。風邪を引いたのかも。俺は行かん。鄭

が帰ってきたら行くように言うから。」

 「あれ?劉、行かないのかぁ。坂本先生が、がっかりするぞーっ。」

おどけた声で張が言う。

 坂本直美は劉のクラス担任だ。30を過ぎたぐらいだろうが、見た目

20歳前後の劉たちとあまり変わらないように見える。長い髪をポ

ニーテールに結んで、いつも体にぴったりの黒っぽいパンツスーツを

着て、颯爽と教室に入ってくる姿は、凛として美しい。

劉は先生の声が好きだ。“カラン、コロンコロン”とどこか懐かしい

鈴の音のような声だ。毎日先生の声を聞くだけで、癒された気分に満たされる。坂本先生が初めて授業に来た日から、劉は先生がお気に入りなのだ。そのせいか坂本先生もよく劉に話しかけてくれたり、面倒を見てくれたり、何かと気にかけてくれる。

 …坂本先生が来るのか。

劉は“風邪を引いた”と言ってしまったことを大いに後悔した。

 「ネェ、ネェ、小劉、劉が来ないと、餃子の皮を伸ばす人がいなく

て困るでしょう!風邪なんかすぐ治るって!行こうよ。」

王華は張と勝手に部屋に上がり込み、コタツに両足を突っ込んだ。張

は流しの方へ行ってお湯を沸かしにかかる。

張は劉の家に来るといつもお茶を入れて飲むのが習慣にしている。

ジャスミン茶の葉を急須に入れる。沸いたお湯を茶葉の上から注ぐ。すぐに、一度その湯を捨てて、改めて湯を注ぐ。今度はゆっくり茶葉が開くのを待つ。最初に一度注いだ湯を捨てるのは、茶葉についたゴミを取り除くためだとか、殺菌するためだとか、いろいろの説がある。

 王華は流しのところで張がお茶を入れるのを見ながら、横に座って

いる劉の太ももを軽く手で押した。

 「ネェ、行こうよぉ…。」

…こいつ、俺にまで色目を使ってやがる。

 劉は、王華の手をしっかりとつかむと、そのままコ

タツのテーブルの上に置いた。

 「やめろ!」

と小さい声で叱咤した。王華は「くすっ」と笑うと、

「あれ?小劉も感じるんだ…。」

と言った。

 「バカっ!」

劉は思わず苦笑いとする。

…女はわからん!

そう思ったが、王華が自分にも色目を使ってきたことに、不思議な満

足感があった。

 「おい、おい、おい、これだから幼馴染には目がはなせないってことだよなぁ。」

 張が用心深く、お茶を運んで来ながら、不満そうに口を尖らしてい

る。

 「小華、僕と劉とどっちが好きなんだぁ!」

 王華の前にひざを立てたまま両手を広げて張が聞く。王華はその張

の胸に抱きついて、耳元だささやく。

 「今は言わない。後で張だけにこっそり教えるよぉ。」

それから、劉の方を流し目に見ながら、長い髪を手でかき上げて背中

の方に流した。ぞっとする程色っぽい。

…バーカ!

 劉は、また不機嫌になった。

 「劉、鄭はバイトの帰りにそのまま趙の家に行くそうだぞ。さっき

メールに書いてあったから。行こう、行こう。正月だろう!」

劉はわざと仕方なさそうに、腰を上げた。坂本先生も来るんだ。“カランコロン、コロン” 先生の声が耳元で鳴った。

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2006年3月25日 (土)

老鼠愛大米

● 春節

2月3日午前8時、劉はまだ万年床の中だ。今年の冬は例年になく寒い。火の気のない部屋は寒いだけでなく、なんとも湿った空気と同室の鄭が昨夜作った中華料理の油でねっとりと重い。起き上がらず、寝たまま枕もとのタバコに火をつけた。煙を思いっきり深く吸い込んでゆっくりと吐く。煙は劉の口元から天井へ向ってまるで狼煙((のろし)のようにスルスルと登っていった。

 今日は元旦だ。去年の春節は中国にいた。高校時代の友人と、みんなで爆竹を鳴らした。“劉、おまえ、羨ましいなぁ。俺も日本へ行けたらなぁ。”そういいながら、友達が俺の肩を叩いたっけ。親友だった田猛は、よっぽど悔しかったんだろう。冗談にしてはあの後ひどく肩が痛かった。劉はもう一度タバコを口に含んでゆっくりと吐いた。あの時は俺も鼻高々で

…そうさ、俺は運をつかんだんだ。この中で運をつかんだのは俺一人だ。そう思っていたようなぁ。憧れのニッポン・・・、あ・こ・が・れ・の・・・

劉は吸いかけのタバコを灰皿に投げ込んで、ガバッと跳ね起きた。頬に冷たいものが流れる。あぁ、俺、泣いていたんだ。その時、ドンドンドン、誰かがドアを叩く。

…チェッ、鄭の奴、またかぎを忘れていったんだな。

鄭のアルバイトは仕出し弁当屋だ。そこで9時ごろから、朝の3時ごろまで弁当を詰める手伝いをする。それが終わると新聞配達の朝刊を配りそれから、うちへ帰って寝る。午後からは日本語学校へ日本語を勉強しに行く。毎日そうして、金をためる。就学生のアルバイトは14時間と決められている。しかしそんなものを守っていたら、日本では暮らしていけないし、卒業後大学へ進学するときの入学金と学費がない。見つかるのを覚悟でみんな一日に8時間も10時間も仕事をしている。

鄭と初めてあったのは、学校の寮だった。劉は日本に来るとすぐ学校が用意した寮に入った。学校の寮は縦長い部屋に二段ベッドが置いてある。部屋の広さは、4畳半程度だ。奥に窓が一つあり、その窓の下に、スチール製の小さな勉強机が二つ並んでいた。その両側にはこれもスチール製の洋服ダンスが、向かい合わせに置いてあった。

「監獄か?」

劉は最初にその部屋に入ったとき、思わずつぶやいた。案内してきた事務の田隈は少し中国語が分かる。めがねの奥からジロッと劉を見て、

「イヤだったら、いつでも出ていいんですよ。だけど日本で部屋を借りるのは大変ですよ。保証人が必要だし、金もかかります。学校はそのためにこうやって君たちのために部屋を用意してあげてるんですからね。ありがたいと思わなくっちゃねぇ。」 と、ヘラヘラ笑った。

…気味が悪いおっさんだぜ。何で笑ってるんだ?

 その時はそう思ったが、その後何度も“ヘラヘラおっさん”“ヘラヘラおばさん”を見かけた。日本語学校の先生もよくヘラヘラする。説明に詰まったとき、なんと言っていいか分からないとき、怒っているとき、悲しいとき、恥ずかしいとき。日本人は自分の感情をはっきりと言葉で表現できないときに、全てこの“ヘラヘラ”でごまかすのだ。と劉は後になって思った。

 ヘラヘラする田隈に言われてすぐにでもあの蛸部屋のような寮を出たかった。しかし、田隈の言うように、日本で保証人を見つけるのはそう簡単ではない。しかも部屋を借りる時の敷金や礼金など劉たち就学生がすぐに払える額ではなかった。

 同部屋の鄭は黙々と働いた。日本に来て3ヶ月はアルバイトをしてはいけない、という学校の規則があった。日本語でコミュニケーションがとれなければ、アルバイト先でトラブルが発生する確率が高いからだ。それに入管法で「就学生は14時間、1週間20時間以上働いてはいけない」と決められている。鄭は日本に来て、わずか3週間、どこからか仕事を見つけてきた。噂によると、紹介料をとってアルバイトを紹介する中国人の組織があるらしい。こういう組織からアルバイトを紹介してもらうと、月々の給料も20%ピンはねされると聞く。学校の寮の門限は10時だ。10時になると全ての門が閉まり、寮長が寝泊りする部屋の前のドアからしか、学校に入れなくなる。

 劉は夜中の1時ごろ帰宅する鄭のために、毎晩トイレに行く振りをして、トイレの窓の鍵を開けておいた。鄭はそこから泥棒のように入ってきた。

 半年後、鄭と劉は二人でいっしょに学校の寮を出てアパートを借りた。鄭がアパートの敷金を出し、劉は家賃の半分を出すことになった。保証人は鄭の担任の先生がなってくれた。 

 「ドン、ドン、ドン」ドアをたたく音がする。

…うるさいなぁ、また鄭が鍵を忘れたのかぁ…。

 劉はパンツ一枚で鍵を開け、ドアを思い切り開いた。

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