2006年7月 2日 (日)

老鼠愛大米NO.59

運動場の真ん中で2組の学生が直美を待っていた。輪の中から高輝が現れた。な、なんと坊主になっている。  「どうしたの?高さん!」直美は驚いて無意識に口に手を当てた。    「坂本先生、すみません。僕たち、劉と先生のために絶対   勝つと誓ったのに、負けたんです。すみません、すみません。」高輝はそう言いながらおいおい泣き出した。  「ありがとう、高さん。劉君にもあなたたちの気持ちが届いたと   思うの。ほんとに今日はありがとう。」直美の周りに2組のみんなが集まった。  「アッ!」直美の体が、スーッと軽くなったかと思うと次の瞬間、空に浮き上がった。みんなの手が、直美を何度も、何度も空へ投げ上げる。 最後に直美の体を趙が受け止めた。直美の周りにまたみんなの顔が重なって囲む。  「先生、先生の学生は劉だけですか?」趙は笑いながら目はまっすぐに直美を見て言った。   「先生、僕たち待ってますから…。」  「先生の声、教室で聞きたい!」 直美は皆の腕に抱かれながら思う。  …そうだった。わたしは 日本語の教師だった。

読者の皆様へ

「老鼠愛大米」、ここまで読んでくださって、ありがとうございます。一応ここでお休みにします。また、いつか書きたいと思います。では、その日まで。             Kittty

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2006年6月23日 (金)

老鼠愛大米NO58

「あら、王華さん、久しぶりね。元気?」

  「元気?うーん、まぁまぁですねぇ。先生は?」

  「元気よ。」

直美が少しうつむき加減に応える。なんだか今までのさわやかな気分がいっぺんにかき消されたような、憂鬱な気分になった。

  

「先生、李麗麗が強制送還されたの、知ってますか?」

「えっ!李さんが!そんなぁ、知らなかったけど。」

「それに、麗麗は妊娠してたんですよぉ。」

まるで、人の不幸を楽しんででもいるかのように、王華が目を細める。

  「妊娠?だ、だれの子?」

  「さぁ、わからないんですよねぇ、これが。たぶん事務の田隈

   さんの子じゃないのかなぁってみんなが…。」

  「そう…。」

  …田隈さんの子…。

また、息が詰まりそうな感覚に襲われて、直美は少しよろけた。

  …もう、いいよね、劉君。わたし、疲れた。こんなことから開放

されたい。

直美はバックの中に手を突っ込んで、劉の土鈴をそっとさわった。

  「先生、劉が死んでからずーっと学校休んでましたね。先生と劉

って何か関係があったんですか?」

王華がねとっとした声で訊いた。長く伸ばした髪の毛を手でいじっている。

  「関係って?」

  「だから、劉と先生って体の関係とかあったのかなーって。

みんな噂してるから…。」

直美はそのまま地面に倒れそうになるのを、テントの柱に手をまわしてようやくこらえた。

  「やめろ!」

いつの間にか趙が後ろに立っていた。その横にさっきの白組のアンカーもいる。スラっとした体型は劉とよく似ていたが、顔立ちは少し影を帯びたような劉とは反対に、今日の青空に溶け込むようなスカッとしたすがすがしさがあった。

  「先生、みんな待ってます。行きましょう。」

趙が直美を促す。直美はそれを手で制して、王華の目をまっすぐに見た。

  「王さん、わたしね、この頃思うのよ。人は三つのタイプにわか

れるんじゃないのかなぁ。人を愛する人、人に愛される人、そ

してそのどちらもできない人。人を愛すことも愛されることも

ない。そんな人さびしいと思わない?あなたがその三番目のタ

イプじゃないといいけど…。」

  「じゃぁ、先生は何番目の人なんですか?」

王華がくいさがる。

  「さぁ、何番目なのかしら?わからないの。でも一つ選びなさい

って言われたら1番目を選ぶわ。人を愛する人になりたい。

たとえわたしがその人に愛されなくてもね。」

直美は心の中でもう一度つぶやく。

  …わたしは人を愛する人になりたい。

  「行きましょうか。」

直美はくるりと後ろをむいて、趙の背中に手を回した。趙は直美の肩を抱く。まるで直美を守る兵士のようだ。

  「あれーっ。趙さん、何やってるんですかぁー。坂本先生を一人

占めはだめですよぉー。」

 佐伯のはじけるような笑い声が聞こえる。

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2006年6月19日 (月)

老鼠愛大米NO.57

追いかける、追いかける、追いかけて走る…。

 選手たちは選ばれただけあって、どの人も早い。白組は女子二人が走ったところで5組中、第3位につけた。3番目の男子は何とか3位をキープしたものの、2位との差は縮まらず、むしろ4位の緑組に追い上げられそうな勢いだ。ところが4番手に走った高輝ががんばった。

阿蘇の草千里で馬に乗ったときのように、

  「負けるかーっ、負けるかーっ!」

と大声で叫びながら二位に迫る。二位の赤組の選手は高輝の大声に気おされたのか何度も振り返って、しまいには次の選手にバトンを渡すときに落としてしまった。あわてて拾っている間に、高輝が趙にバトンを渡し、赤組を抜き去った。

 趙も早い。またもや「負けるかーっ。」と叫びながら、暴れ馬のような格好で1位の青組みを追いかける。しかし青組の鄭はもっと早い。差が縮まるどころか、ヂリヂリと開いていく。

 鄭が最後のコーナーを回ったとき、それぞれの組のアンカーが一列に並んだ。

 立ち止まって見ていた直美はその姿に息を呑んだ。白組のアンカー

はまるで劉そのものではないか。スラッとした長身の体躯だけではなく、遠くからみると顔まで似ている。

青組のアンカーにバトンが渡ると、数メートル遅れて趙が白組のアンカーにバトンを渡した。アンカーは長い足を更に長く伸ばして、青組を追いかけて走る。

白い鉢巻に「劉」と書いて走る。まるで豹のように、地面を蹴るたびに砂埃を巻き上げながら走る。

「劉!劉!劉!リュウ!!」

いつの間にかどの組も白組のアンカーに声援を送り始めた。

 「リュウ、リュウ、リュウ!」

大合唱は止まらない。直美の前をアンカーが駆け抜けたとき、劉の鼓動が直美の胸に直接伝わってくるように思えた。

 青組のアンカーと白組のアンカーはほとんど同時にテープを切った。白組のみんなは一斉にアンカーのところに集まって、アンカーを胴上げした。2回、3回と劉が空に溶け込んで宙に舞う。

 レースが終わると表彰式が始まった。直美はみんなに気づかれないようにそっと席をたつ。

  「坂本先生、黙って帰るなんてずるいよーぉ…。」

後ろで声がした。王華がテントの脇に立ってこちらを見ていた。

 

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2006年6月15日 (木)

老鼠愛大米NO.56

           スポーツ大会

 “パンパーン…”

空砲が聞こえる。九州日本語学院のスポーツ大会開始の合図だ。直美はようやく退院し、「是非見に来てください」という趙の誘いを断りきれずに、会場の入り口までやってきた。

 朝から何度も入り口の方を気にしていた趙が目敏く直美をみつけて

「坂本先生-っ!」と手招きする。周りにいた2組の学生たちがはじかれたように立ち上がって、バラバラと直美の方に駆けてきた。

 久しぶりの顔。どの顔も懐かしい。

  スポーツ大会は白組、赤組、青組、緑組、黄組の5つのグループに分かれて争われる。10月からこの学校に入学した新入生も加わっていて、直美の知らない顔がずいぶん増えている。

出し物は例年と同じような種目で、百足競争、綱引き、玉入れ、借り物競争、二人三脚。

 二人三脚は事務長の八田と、斉藤主任がペアになった。ところが二人の気が合わずに何度も転び、最後は結んだ紐がほどけてしまった。しかたなく、八田が斉藤を抱き上げて必死でゴールに駆け込んだ。

二人の様子に、学生たちは涙が出るほど笑い転げる。

斉藤は八田に抱き上げられたことに腹を立て、ゴールしたとたん、本気で八田のほっぺたを「バシーン」っと平手打ちした。

それを見てまた会場全体がドッと笑いの渦に包まれた。

スポーツ大会は楽しい。こんなに笑ったのは久しぶりだ。どの顔もうれしさに輝いて見える。

 時間はアッと言う間に過ぎて、最後の種目、各組対抗のリレーが始まった。

 男女6人が組になって走る。女子が二人で、半周ずつ、残りの男子4人がそれぞれ1周ずつ走って1位を争う。

 皆と久しぶりに競技を楽しんでいた直美もリレーとなるとさすがに胸が痛んだ。去年の劉を思い出す。劉は走るのがずば抜けて速かった。細く長い足が鋼のような強さで地面を蹴って走る。劉が走り始めるとレースよりも、劉の走りそのものに観衆は目を奪われたものだ。

  …もう、帰ろうか…。

 直美はトイレに行くふりをして、そっと席を立った。皆の輪から離れて数歩、歩いたところで

「ウォーッ!」という歓声が背中で聞こえた。後ろを振り返ると、リレーの選手団が入場してくるところだった。

「アッ。」

直美にもみんなの歓声の意味が分かった。趙たち白組の選手はみんな

頭に墨で「劉」と書かれた白い鉢巻をしていた。

  走る、走る、走る…。

 選手たちは選ばれただけあって、どの人も早い。白組は女子二人が走ったところで5組中、第3位につけた。3番目の男子は何とか3位をキープしたものの、2位との差は縮まらず、むしろ4位の緑組に追い上げられそうな勢いだ。ところが4番手に走った高輝ががんばった。

阿蘇の草千里で馬に乗ったときのように、

  「負けるかーっ、負けるかーっ!」

と大声で叫びながら二位に迫る。二位の赤組の選手は高輝の大声に気おされたのか何度も振り返って、しまいには次の選手にバトンを渡すときに落としてしまった。あわてて拾っている間に、高輝が趙にバトンを渡し、赤組を抜き去った。

 趙も早い。またもや「負けるかーっ。」と叫びながら、暴れ馬のような格好で1位の青組みを追いかける。しかし青組の鄭はもっと早い。差が縮まるどころか、ヂリヂリと開いていく。

 鄭が最後のコーナーを回ったとき、それぞれの組のアンカーが一列に並んだ。

 立ち止まって見ていた直美はアッと息を呑んだ。

白組のアンカーはまるで劉そのものではないか。スラッとした長身の体躯だけではなく、遠くからみると顔まで似ている。

青組のアンカーにバトンが渡ると、数メートル遅れて趙が白組のアンカーにバトンを渡した。アンカーは長い足を更に長く伸ばして、青組を追いかける。

 

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2006年6月11日 (日)

老鼠愛大米NO.55

病室のドアから色とりどりのコスモスがゆらゆらと顔を出した。

  「先生!今日はげ・ん・き?」

趙がドアの脇に立って、腕一杯のコスモスを抱えている。

  …「コスモス(秋桜)」やっぱり菊だけど。でもこれならいいわ

ね…。

斉藤主任の誕生日、あの時の騒動を懐かしく思い出しながら、直美は小さく微笑んだ。

 趙は劉の葬式の後も一向に元気にならない直美を気遣って、このところ毎日のように病室を訪れる。もう、劉の話を一切しない。

…したら先生の悲しみを大きくするだけだから…。

両親が劉の遺骨を抱いて学校を訪れたこと。佐伯先生が劉の遺骨ごと母親に抱きついて、斉藤先生が無理やり引き剥がすまで、いつまでも泣きじゃくっていたこと。事務の田隈先生がなぜか「すみません、すみません」と土下座して謝り続けたこと。

  …そんなこと、坂本先生にはもう、どうでもいいことなんだ、劉

がいなくなった今は…。

趙はそう思っている。  

 

 秋の日は落ちるのが早い。趙はしばらく直美のベッドの脇に座って、学校の教室で起こったおかしな話などあまり上手にならない日本語で、

とつとつと話してから、立ち上がった。

  「先生、僕そろそろかえります。」

直美が布団からちょっと手を出して、趙にさよならとでも言うように手を振った。趙はその手を捕まえて、

  「先生、これ先生にあげます。」

いきなりポケットから土鈴を取り出して、直美の手の平にのせた。

  「この土鈴。劉のなんです。劉が事故にあったとき、この鈴を両

手で包んで胸のところで抱いていました。先生、この鈴ね、振

ると坂本先生の声がするんだ。きっとこの声といっしょに、天

に上って行ったんだですね、あいつ。」

 …だから、先生の声がでなくなったんだろうか…。

趙はまじめに心配している。

「でも、大丈夫。僕が先生の声を取り返してきたから…。」

 趙はちょっとおどけた声でそういうと、後ろ向きに歩きながら病室を出て行った。

   「先生、早くよくなって。もうすぐ学校のスポーツ大会だよ。

みんなで待ってますからーぁ。」

ドアを閉めてからも、趙の声が聞こえる。

 直美は土鈴を手のひらにのせたままじっとベッドに座ったままだった。土鈴をそっと振ってみる。

  「カラン、コロン…」

  …劉君…。

直美は声をあげて泣いた。劉が死んで初めてのことだった。

 

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老鼠愛大米NO.54

      

「先生!」

劉の手が直美を引っ張る。直美はしっかりと劉の手をつかんでいる。

阿蘇の河口付近、下は深い谷だ。

  「先生。俺…。」

その時、麗麗の歌う声が聞こえてきた。麗麗は劉の後方、阿蘇の火口に向かって立っている。

  我爱你想着你、就想老鼠爱大米……

麗麗が歌う。劉はその声に引きつけられるように後ろを振り向いた。

  「あっ。」

劉が直美の手を離した。

直美が落ちていく。深い暗い谷。

  「劉君!あなたに言うことがあるのよーっ。」

声を張り上げて叫ぼうとするが、なぜか声にならない。

吸い込まれるように落ちていく。深い谷。いやそこは劉の黒い瞳の中の底知れね淵のようでもあった。

 ハッと目が覚めた。

背中にべっとりと汗をかいていた。まだ劉に握られた手の感触がそのままに残っていると言うのに…。

…ここは? ああ、病院か…。

 あれから、何度も同じ夢を見る。劉に手を引かれ、麗麗の歌声が聞こえ、同じように暗い淵に落ちていく。そして、目が覚める。

  …ここは? ああ、病院か…。

 

 趙が劉の知らせを持って職員室に来た日。直美は趙の腕の中で気を失った。そのまま病院に運ばれた。息ができないような苦しさに見舞われて、集中治療室に運ばれた。「無呼吸症候群」、ストレスが原因だった。

しばらくして症状が治まり、一般病棟に移されたが、直美のストレスが和らいだわけではなかった。あまりのショックからか、声を出すことができなくなったのだ。

 今日で4週間目。同じ夢を見てびっしょり汗をかき、目が覚める。

だれが来ても、だれが話しかけても、どうしても声がでない。

 直美が入院している間に、劉の葬式が執り行われた。劉の両親が中国から駆けつけるまでまる1週間かかった。何かあったからといってすぐにビザが出る国ではない。劉の日本での保証人が、あちこち奔走してやっとのことで両親を日本へ呼ぶことができた。

 その間、劉の遺体は葬儀屋の特別の計らいで、葬儀会場の冷蔵庫の中に安置された。

 葬式は日本語学校、劉の友だちや保証人、みんなの協力で行われた。

直美はその経過を一部始終知っていた。趙が病院に来てはその事を、報告して帰るからだった。

直美は趙が来ても、目を開けなかった。死んだように無表情で、じっとベッドに体を横たえたまま身動き一つしなかった。ただ趙には直美が起きていること、趙の話を聞いていることがよくわかっていた。趙が劉の話をする度に、直美の目の端にうっすらと涙がにじんだ。

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2006年6月10日 (土)

老鼠愛大米NO.53

いつの間にか職員室がざわついてきた。職員が次々と出勤してきたのだ。「もう、その話はまた後で」と斉藤は佐伯を席の方へ促した。

その時だった。ドアのところに趙が現れた。

  「先生、交通事故です。」

趙がなぜかいつもに増してモタモタと話す。佐伯が先ほどのことをひきずっているのか、イライラした声で叫ぶ。

  「またですかぁ。もう、学期が始まったらとたんに、こうなんだ

から。いい加減にしてほしいわよ。今度はだれ!」

バーン!と机をたたいて立ち上がった。

  「2組の劉です。」

  「えっ!劉君。劉翔さんが事故にあったんですか?」

日本語学校では「学生が交通事故にあった」というニュースが少なくとも1ヶ月に1回か2回入ってくる。信号を確認しないせいか、あるいは信号を無視しても大丈夫、相手が止まってくれるから…、という根拠のない思い込みを捨てきれないのか、学生たちはいとも簡単に事故にあう。

 ただ、「劉翔」とは意外だ。あの学生がそんな無茶な横断をしたりしないはずだ、と誰もが思う。

  「で、劉さんは今どうなっているんですか?」

佐伯はさっきとはうって変わった調子で聞き返した。

  「今、病院です。病院で…。」

  「どこの病院?!」

後ろで直美の声がした。

  「趙さん、劉さんはどこにいるんですか。」

趙が振り返ると、直美が透けるような青白い顔になって尋ねた。

  「先生、病院にいます。」

  「だから、病院ってどこなんですかぁ!」

佐伯が前より大きな声を出す。趙は焦点の定まらない目で

  「あの、あのわかりません。名前、わかりません。」

  「趙さん、で、劉さん、どんな様子?」

斉藤がいつもよりもっと落ち着いた声で、趙の肩に手をかけて訊く。

  「先生、もうだめです。」

  「うん?、もうだめって?」

  「何?趙さん、だめって何が?」

直美はゆっくりと、趙に近づいた。

  「だめって何が?まだ間に合うの?間に合うならわたし、劉君に

   言いたいことがあるのよ。」

消え入るような声で直美が言う。

趙は直美の腕をつかんだ。そうでもしないと直美は今にも倒れそうだった。

  「先生、もう間に合いません。 劉翔、死了。(死にました)。」

眼の前が真っ暗になる。劉の手を思った。細く長い手、力強く直美を引く手。そしてその時、劉が直美の手をパッと離した。

  …劉君…。直美は落ちていく。暗い、暗い闇の中に。まだ言うことがあったのに、「あなたが好きだ」って、言わなくっちゃならないのに。声が出ない。深い暗い闇の中に直美は音もなく吸い込まれていった。  

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2006年6月 4日 (日)

老鼠愛大米NO.52

● 絶望

月曜日。新しいことが始まるといつも緊張する斉藤はこういう

とき、特に早く出勤することにしている。今日も相当早い時間に学校に着いた。久しぶりの緊張感にちょっといい気分になって、颯爽と職員室に入って行った。

  「主任!」

佐伯が珍しく一番に学校に来ている。斉藤を見ると、待ちかねたように椅子から立ち上がった。

  「あら、佐伯さん、どうしたの。珍しいわねぇ。こんなに朝早く。」

  「あの、主任、相談があります。李麗麗さんが強制送還されたの

をご存知ですか。」

佐伯は妙に落ち着きがない。

  「知ってるけど、それが?」

  「あの、金曜日に5組の王華さんから電話で、『李さんが強制送還になって、アルバイト先のお金ももらってないし、困っているから助けてやってほしい』って頼まれて、わたし、お金を貸したんです。」

  「えっ、あなた。」

「あなた」とつい言ってしまって、斉藤は「しまった」っと思った。しかし佐伯は自分の話に夢中で、そんなことに気がつきもしないよう

だった。

  「で、いくら貸したの?」

  「20万円です。」

  「えーっ、20万円!」

  「ええ、ボーナスを貯金していたし、王華さんのおばさんから

   返してもらうからって言うもんで。」

  「じゃぁ、良かったじゃない。それなら。」

斉藤はもうそのことに触れたくなかった。早いとこその場を退散したい気分になっていた。

  「それが、そうもいかないんです。実はわたし、お金を王華さん

に預けた後、心配になって王華さんのおばさんの店に電話をか

けたんです。」

日曜日なので店にはだれもいないかもしれない、と思いながら佐伯は調べておいた電話番号を押してみた。すると意外にも王華のおばさんが電話口に出た。えらく眠そうな声だった。おそらく前の晩からその店に泊まっていたのだろう。事情を話すとおばさんは不機嫌そうな声で、

「あのー、王華は私の姪っ子ではありません。」

と言う。

  「ええっ。だって王華さんがおばさん、おばさんって言う

ものだから。」

佐伯は自分が貸した20万円のことを思って、大いに不安にたってきた。

  「第一わたしは中国人じゃありません。親戚が中国人と国際結婚

でもしてるならそうかもしれないけど。今んところ、そんな人

はいないし…。」

  「なら、李麗麗さんがお宅で働いていたっということじゃないん

ですね。」

  「それは働いていてましたよ。だから強制送還されたんじゃない

の。うちだって被害者なのよ。それなのに王華が来て、李さん

の給料をすぐに払ってほしい、李さんの帰国に間に合わない、

というから、給料日前なのにあわてて李さんの分だけ支払った

んだから。」

  「えーっ、もう給料支払ったんですかーぁ!」

佐伯は仰天した。

  …だったらわたしの20万円、だれが返してくれるの?

  「もしもし…。」

今度は向こうから話しかけてくる。

  「あなた、もしかして王華にお金貸したんじゃないでしょうねぇ。」

  「えっ?そんなこと…。」

佐伯はつい否定してしまった。王華にだまされたことを見ず知らずの他人に正直に言う気にはなれなかった。

  …それこそ、笑い者だ。

  「なら、いいけど。あの子ね、あんたの学校に坊っちゃん、坊っ

ちゃんした中国人がいるでしょ?あの子といっしょにルーレッ

ト賭博やったらしいのね。最初はよかったらしいけど、ほら

あんなのって、やくざが絡んでるわけだから、最後には借金し

ちゃって、王華の方は『体で返してもらうからなぁ!』って脅

されてたらしいのよねぇ。」

耳の奥で店のママの声がだんだん小さくなっていくような感覚に襲われた。

  …ショック、ショック!ショックーッ!

   だまされた、だまされた。だまされたんだーぁ…。

斉藤は佐伯の話を聞いて思った。

  …もう、佐伯の20万はかえってこないだろう。店のママは本当

に王華のおばさんじゃないのだろうか?それだって怪しい。少

なくとも夫からもらったあの茶封筒だけは李麗麗に渡っていて

ほしい。

あの日、一つ傘に入って帰る、王華と張岩の姿が目に浮かんだ。

  …あの10万だけは李さんに渡したんじゃないだろうか。

斉藤はそれだけは信じてやろうと思う。

  …そうでなければあまりにもむなしい。

「自分が…」なのか、「王華が…」なのか、斉藤にはわからなかった。

 

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2006年6月 1日 (木)

老鼠愛大米NO.51 

● 夕日

 明日からまた学校が始まる。今日は日曜日だというのに、田隈は臨時出勤をさせられた。月曜日のホームルームに必要な資料をそろえたり、担当の先生は全員間違いなく出勤できるのか問い合わせ、出席簿はちきんとそろっているかチェックする。その他いろいろな書類を点検しなければならない。朝からフルに働いて夕方まで作業が続いた。

  …さぁ、そろそろ帰ろうか…。

そう思って目を上げると、事務室の窓に張り付くように男が立っていた。

  「ウヘッ!劉君じゃないですか。びっくりしたなぁ、もう…。

   脅かさないでくださいよ。」

  「田隈先生、話があります。ちょっとこちらへ出てきてください。」

  「なんだぁ、ちょっとおっかないなぁ。まっ、劉君のお願いとあ

れば、きかないわけにはいきませんかねぇ。」

今日の田隈は妙に下手に出る。相変わらずヘラヘラしながら事務室を

出てきた。劉はロビーの真ん中に仁王立ちになって田隈を待っていた。

  「何なの?何かあったんですか。」

また、ヘラヘラ笑いかけたところへいきなり劉の拳が飛んできた。

  …ガツーン!…

不意をつかれて、田隈はヨロヨロとよろけると、ロビーの床に片膝をついたかっこうになった。鼻から血がワッと噴出した。

  「おい、おい、おい!なんでこんなことするかなぁ…。」

さっきとは別人のような恐ろしく陰気な声で田隈が言う。

  「麗麗が強制送還になったぞ。お前のせいだ。」

  「俺のせい?!」

  「そうだ。お前のせいだ。お腹の赤ん坊だって、お前の子どもだ

ろうが。なぜほったらかしにした!」

夕日がロビーの窓から差し込んで劉の足元まで伸びている。

田隈は鼻血を手でぬぐいながらゆっくりと立ち上がると、夕日を背にして劉と向き合う形になった。田隈の白い顔がどす黒く影のように見える。

  「おまえ、こんなことして…。ただではすまないぞ。今度こぞ強制送還してやるからな。」

  「おーっ、やってみろ。その時はこっちだってだまっていないぞ。

   おまえがやったこと、最初からみんなぶちまけてやるからな。」

劉はもう一度拳を強く握り締めた。

  「あれーっ。そう来るわけですかぁ。そりゃぁ困ったなぁ!」

田隈がすっとんきょうな声をあげる。

  …なんだこいつ。ころころ変わって。病気か?…。

  「ほんとは僕、李さんと結婚するつもりだったんですよぉ。」

  「うそだ。」

  「本当です。なんどもそういったんだ。でもだめだった。李さん

はちっとも僕を愛してくれなかった。」

  「だから麗麗を殴ったのか。そんなの理由にならんだろう。」

  「そうなんですよねぇ。分かってたんですけどねぇ。もう、自分ではどうしようもなくてさぁ。」

  …えっ??。

っと思った。田隈が泣いているように見える。いや田隈は確かに泣い

ているのだ。

  「悔しいんだけどね、李さん、あんたが好きだったんですよ、劉君。最初からね、ずーっと。あんたも知ってたんじゃないの、そのこと。ほったらかしにしたのは僕じゃなくてあんたでしょう。それにねぇ、李さんのお腹の子、僕

   の子じゃないって、李さん、がんばるんだなぁ。」

  「何?」

  「お腹の子ですよ。僕の子じゃないなら、あんたの子じゃないん

ですか?」

  「そんなはずないっ!」

  「そうですよねぇ。僕だって信じませんよ。でも李さんは絶対に

僕の子じゃないって。ま、真相は藪の中。藪の中を知っている

のは…。ねぇ、劉君。あの事、ほらホテルであったでしょう。

あの日のこと、僕たち三人だけの秘密なわけですからねぇ。」

 

  ビュウンビュウンビューン。夕日に向かって自転車を走らせる。…待て、待ってくれ。今日を終わらせないでくれ。もう一度もどってくれ。麗麗のお腹の子が俺の子だなんて!

劉は夕日に向かって自転車を飛ばす。もう一度あそこで止まってほし

い。空港のロビーで麗麗に会ったあの瞬間に。

  …そしたら麗麗に訊けるのに。「麗麗、そのお腹の子は、俺の子かって。お前は何も言わすに俺の子を連れて国へ帰って行ったのか。

麗麗の顔が目の前に現れる。ビュンビュンビュン、夕日に向かって走

る。「この子は劉、この子はあ・な・たの子よ」。麗麗の唇が動く。

「あっ!」

自転車の前を何か黒い物が横切った。劉はあわててハンドルを右に切

った。猫だった。

  その時、

  ドーンッ…。

後ろから来た軽トラックが劉を自転車ごと跳ね飛ばした。劉の体は棒

を宙に放り上げたように高く舞い上がると、そのまま頭からアスファ

ルトの道路へ落ちていった。

  「カランコロンコロン」

劉のナップサックから土鈴が転がりでた。ジワーッと熱い液体が劉の

耳から流れ出た。劉がゆっくり土鈴に手を伸ばす。

  …先生、先生…。もう、何も見えない。

空から黒い幕が下りてきたように辺りは真っ暗になった。

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2006年5月30日 (火)

老鼠愛大米NO.50

 故郷の祖父は病院に寝たきりだったが、帰国した劉に勇気づけられ

たのか、少し元気をとりもどした。そう長くはないにしても、少なく

とも劉がいる間は病状が安定していた。

 「いよいよ日本へ旅立つ」という日、劉が病院に祖父を見舞いに行

くと、祖父はめずらしく背中に枕をさし込んでベッドの上に体を起こ

していた。

 「翔、私は元気だよ。…翔が元気でがんばっている限り私は元気に

しているから、安心しなさい。…でももしお前がまじめに勉強し

なかったり、…弱気になったりしたら、、…私もすぐに悪くなって

しまうからね。……しっかり努力しなさい。…それが私の一番の

薬だからね。」

祖父はゆっくりとそれだけ言うと疲れたのか劉の母親に目で合図して、ベッドに横になった。そしてもう一度劉を自分の顔の方へ呼び寄せた。そして小さな小さな声で、劉の耳にささやいた。

  「私が死んでも、葬式に帰ってきてはいかん。日本で勉強をつづ

けなさい。私が死んだら、いつだって好きなときにお前に会い

にいけるから…。」

  劉は祖父に抱きついた。そのまま大声で泣きたかった。しかし泣

かなかった。泣いたら祖父がもっと悲しむ。

 ぱっと顔をあげてきっぱりと言う。

  爷爷,再见

 今生の別れだった。

 福岡空港の一階は、たった今、日本に到着した人たちと、今から外国へ出発しようとする人たちで混雑している。

 劉は空港の中を走るシャトルバスに乗ろうと、バス停の方へ歩いていった。向こうから知った顔が歩いてきた。麗麗だった。手荷物だけを肩からかけて、脇を見知らぬ男につかまれ、引っ張られるように歩いてくる。

  「麗麗。」

劉は二人の前に立ちふさがった。

  「おい、そこをどけっ。」

男が劉を乱暴に押しのけようとする。

  「何ですか。」

劉は男の手を押さえた。

  「お前は誰だ。この女の知り合いか?手を出すな。手を出し

たら、お前もいっしょに強制送還させるぞ。」

男が劉に顔を近づけて低い声で言う。

  「すみません。その人、私の知らない人です。構わないで

   ください。」

麗麗が泣きそうな顔でそういって一人でずんずん先へ行く。男が

あわてて麗麗の腕をつかみなおした。

  「おい、麗麗。どうなってるんだ。」

劉がまた二人を追いかけようとしたとき、麗麗が振り返って口を

動かした。

  「再見!」

あの時と同じだった。あのホテルのエレベーターであったときの麗麗と今の麗麗は同じ顔をしている。ただ一つだけ違うこと、それはもう

劉に助けを求めていなかった。「さようなら。劉!もうあなたに会うことはないと思うの」、泣いているのか、笑っているのかわからない麗麗の顔がどんどん小さくなっていった。

  …麗麗…。

 ぼんやりと空港のロビーに立ちつくす劉に、注意を払うものなどだれもいない。

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